奈良橋村(新編武蔵風土記稿)

奈良橋村(新編武蔵風土記稿)

○奈良橋村(ならはしむら)

 奈良橋村は、郡の艮(うしとら)にあり、此辺阿豆佐美の里と称し、村山郷に係れり、庄名は殿ヶ谷戸なりといへど、この庄名は外に聞ことなし、郡内藏舖村は正徳年中この村より分郷せしことは其所に弁せり、されば地形犬牙して慥(たしか)には分ちがたけれど、其大略をいはば、東は高木村に境ひ、南は小川・砂川の両村に接し、西は芋久保村により、北は山峯を限として入間郡新堀村に交はり、坤は藏鋪村につづけり、藏鋪を合して東西十町、南北へ二十町余の地なり、地形平かに北方には山を環らせり、

 土性は野土なれば土輕きゆへ、爰も田間に字津木を植て風除などせり、陸田多く水田はわずかに北方山よりの所に開き、そこの清水を引て用水となせり、民戸五十八軒、耕作の暇には木綿縞をおれる外に、蚕を以て女子の業となせり、

 この村開闢の昔はいつと云ことを伝へされど、郡中芋久保村鹿島神社に掛たる建武三年の錬銘に、此村名をのせたれば此村名も古くより唱へしことなるべし、天正年中より石川太郎右衛門が知行と、外に武藏野新田の方は酒井清次郎が知行交れり、万治年中御料所となりし頃は、中川八郎右衙門・今井九右衛門等支配せり、いつの頃かここの地頭石川某検地せしことあり、新田をば元文元年大岡越前守検地せしよし、今は御料所にて大岡源右衛門支配所なり、

高札場 村の西にあり
山川  山の北の方にあり、上り一二町許り
水利 用水堀 村の南、新田の境を流れり、他に悪水堀三条村内を通ぜり、

神社 

山神社 除地、三畝、南の畑中に在、わづかなる祠なり、

八幡宮 除地六段、村の西北方にあり、上屋二間に三間、内に五尺の社を置り、拝殿は二間半に三間、前に鳥居をたつ、

山王社 除地、南の畑中にあり、以上の社鎮座の初は伝えず、いづれも村内の修験、覚寶院の持、

愛宕社 除地、雲性寺の東にあり、わづかなる祠にて、上屋は九尺四方、ここも鎮座の初は伝えず、村内大徳院持、
日月宮 除地、六畝、わづかなる祠なり、

寺 院 

雲性寺 除地、二段五畝、村の北山麓にあり、天王山観音院と号す、真義真言宗、中藤村真福寺の末、開山開基の人を伝へず、本堂五間に七間南向、本尊弥陀木の座像一尺六寸を安せり、境内には此所の地頭石川太郎右衛門代々の墳墓あり、

観音堂 門を入て右にあり、二間四方、観音は十一面木の座像一尺二寸許なり、
天王社 境内後背の山の中腹にあり、則村内の鎮守なり、

大徳院 除地、二段、修験なり、府中門前坊の末、愛宕山と称す、寛永十六年聖護院宮より、金襴の袈裟を給はりしと、その故を伝えざれど、この頃よりの修験なるべし、
覚寶院 これも修験にて、八幡山と号す、同じ支配なり、

旧跡

屋敷跡 蔵舗村の境にあり、
蔵屋舗跡 同じ辺にあり、石川某の住居せし屋舗跡、及び其人の蔵屋舗跡なりと云、石川某は所の地頭なれば、元はここに住居ありしなるべし、

塚 

塚 宅部境にあり、東覚塚と云、何のゆえんなりや詳ならず、
旧家 百姓勘左衛門 先祖岸入道右近尉吉家、天正十五年六月死とのみ伝えり、旧家なる由を云えど拠所はなし、