学校の建設と移り変わり
東大和市学校教育のあゆみ
学校の設立と移りかわり
明治二十六年四月一日
従来神奈川県に所属していた三多摩地区が、東京府に管
轄がかわった、したがって校名もそれぞれ
東京府北多摩郡高木村外五ケ村組合立昇隆学校
同奈良橋学校
同高狭学校
と改称された。
明治二十七年十二月五日
高木村外五ケ村組合村長尾又高次郎より申請、神奈川
県より東京府へ移管された際の学校設置申請によれば、
三校の規模は次の通りである。
尚、昇隆学校を高木村外五ケ村組合第一村山尋常小学校
奈良橋学校を同第二村山尋常小学校
高狭学校を同第三村山尋常小学校
と校名を変更している
○第一村山尋常小学校芋窪村字中谷ツニ〇七七
尋常科四年 二学級編成 生徒数一二〇名
(男八〇、女四〇)教員数三名(正教員二、准教員一)
建坪七三坪 敷地二九四坪 平家檜皮ぶき
○第二村山尋常小学校
奈良橋村字日月前川北三六三、一学級編成 教員数一
生徒数四五名(男二八 女一七) 建坪三八坪 雲性寺地内借用、平家檜皮ぶき
○第三村山尋常小学校
狭山村字大道一三四九、二学級編成、教員数三名(正二准一)生徒数一〇〇名(男六五 女三五)
建坪六七坪 敷地、円乗院所有地借用、平家鉄板ぶき
授業料五銭(月額) 教員月俸(正教員】二円、准教員五円)
日清戦争ごろ
これよりさき日清両国間に不幸にして戦端が開かれ、
国内は多事多難となった。教育界もまた、戦時下の緊張
とさらに軍事的な影響をうけるようになったことは容易
に想像できる。平和克復後、かの「三国干渉」があり戦後