廻田谷ッ遺跡

廻田谷ッ遺跡

 ニツ池を源とする前川が、東に向かって流れ下るその北側、東西に延びる狭山丘陵の南向きの斜面に、廻田谷ツ遺跡がある。閑静な住宅地に囲まれた中に取り残されたように残る雑木林に遺跡が眠っていた。

 一九八四年(昭和五十九)、遺跡の範囲や内容についての情報を得るため、小規模な発掘調査を行った。

 何か所かに設定した試掘坑から、平安時代から鎌倉時代にかけての土器片や瓦の破片などが発見されたが、量としては多くはなかった。

 その中で、特に遺物が集中する部分を重点的に調査したところ「立川ローム」という関東ローム層の一種を意識的に踏み固めて作ったと思われる遺構が見つかった。狭山丘陵に立地する遺跡では、ほとんどの場合、関東ローム層のうちでも「多摩ローム」と呼ばれるチョコレート色の土が地山となっていて、「立川ローム」が見られるのは珍しいことといえる。ところがこの遺構では「立川ローム」が広い範囲に検出され、明らかに人工的な加工が施されていた。

 平らに踏み固められたテラスのような部分と、急角度に立ち上がる斜めの壁が調査区域の外まで続いていた。限られた範囲の調査だったため、遺構の全容はつかめなかったが、テラス部分に掘り込まれた柱穴のような土坑から、平安時代の末から鎌倉時代のものと思われる土器片が見つかった。このことから、この遺構のおおよその年代は推定できたが、造成工事とも言えるような大規模な遺構が、何の目的で作られたのかについてはまったく見当がつかない。しかし周辺の状況から見て、住居など日常的な生活の場ではなく、何か別の活動の痕跡ではないかと考えたい。

 最初の確認調査から一〇年近くを経た一九九三年(平成四)、遺跡の推定範囲の東端と、さらにその東側に広がる雑木林の造成が計画されたため、工事に先立って発掘調査が実施された。

 調査対象地の北側半分は、竹林となっていたため根による撹乱がひどく、遺構遺物を発見することはできなかった。調査地の西端は、小さな谷が南から入り込んでいて、ここに設定した試掘坑からも平安時代から鎌倉時代にかけてのものと思われる遺物が出土した。

 そして調査地の東端の試掘坑からも須恵器片などの遺物が集中して出土し、住居跡らしき落ち込みも確認できたため、試掘坑を拡張し住居跡全体の検出を行った。その結果、南側の壁の一部が失われてはいるものの、東西三層、南北四材の長方形の住居跡であることがわかった。


 東側の壁の中央には、カマドが作りつけられ、真っ赤に焼けた土がその中に詰ま っていた。焚き口と思われるあたりには、甕の破片が押しつぶされたように埋まり、両側の袖の部分には細長い礫を立てて補 強していた。

 また住居跡の北東部分の床面には、ブロック状の焼土や 炭化材などが多量に広がっており、この住居址が火災に遭った可能性をうかがわせた。 

 住居から発見された遺物は、土師器と須恵器の破片がほとんどで、石器類は見つからなかった。出土した土器の内容を見ると、甕と圷の二種類に大別できる。

 甕は煮炊き用の土器で、圷は今で言えば茶碗にあたる配膳用の土器である。もう一方の須恵器については、圷だけの出 土で甕の類は見つかっていない。ただ、製作時の焼成がよくなかったようで、須恵器本来の固さを持っていないもの が多い。

 また、床面から浮いた位置からは、自然釉のかかったとっくり状の陶器が 見つかっている。欠損しているが、くびれた首の部分から胴部にかけて把手がつけられた、平安時代末頃のものと思われる。

 発見された土器などから、平安時代の後半から末頃、およそ八〇〇年~九〇〇年ぐらい前の住居跡と考えられる。

 またこの住居跡の西に二〇㍍ほど離れて、もう一軒の住居跡が見つかった。全体の三分の二程が失われていたが、東側と北側の二か所にカマドを持つやはり平安時代後半期のものである。

 近畿地方では貴族たちがきらびやかな生活をしていた同じころに、狭山丘陵の一角では、縄文時代からそう変わらない竪穴住居で生活していたことになる。発見された遺物からは、必要最小限の家財道具で暮らす姿が浮かび、決して豊かな生活を想像することはできない。

 東大和市の歴史の流れを追うと、縄文 時代中期以降人々の生活の痕跡が極端に少なくなる。廻田谷ツ遺跡から二軒の住居跡が見つかったということは、この時代にも定住して、人々がいたことを示しており、市の歴史の空白を埋める重要な意味を持っている。
(『東大和市史資料編3』p110~113)