後ヶ谷村・宅部村(新編武蔵風土記稿・武藏名勝図会)

後ヶ谷村・宅部村(新編武蔵風土記稿)

○後ヶ谷村

 後ヶ谷村は宅部郷に属せり、東は清水村に隣り、南は小川村・高木新田に限り、西は奈良橋に境ひ、北は狭山の峰を境として、入間郡菩提木・新堀の二村に接す、東西へ凡そ十町、南北へ三十町許、地形は平かにして、北の方に狭山を負ひ、又中央より北によりては、西より差し出たる少しの山あり、

 水田は北方の山根に少しく開きたれど、わずかに此地の渓水を引て用水となせば、水災はなく、ややもすれば早損の患あり、陸田は多くして村落をなせる平地の所に開けり、此は野土なり、概していわば、土性は真土多く、民戸天正の頃は十二軒ありしが、後稍く(ようやく)増加して今は四十五軒となれり、いずれも山に傍て散住せり、耕作の暇には薪を伐りて江戸へおくり、傍ら養蚕のこともなせり、

 村内尾張殿の鷹場にして、村民其役を勤めり、検地は寛文九年岡上次郎兵衛・近山五左衛門司どれり、又延寶二年は彼の二人に今井九右衛門加りて司どれり、元禄三年は細井九右衛門奉りて検地をなせしことあり、天正の頃は逸見四郎左衛門が知行せしよし、故ありて上地となり、天和三年の頃より御料となれり、御代官の遷替は詳ならす、今は小野田三郎右衛門支配せり、

高札場 村の中央にあり
小名 南谷戸(村の南を云)宅部(北方なり)内堀(西北を云)杉元(中央なり)
山川
 
狭山 村の北通り多摩・入間両郡の界にあり、上り大抵二十三町、箱根ヶ崎村より久米川村、及入間郡辺まで三里、村山郷に属せし村々、この山の根通りにかかれる、猶総説狭山の条に出せり、
石川 村の北の方を流る、
狭山池 村の北の方字小澤の溜池なり、水田の南方山合に三十間許なる堤を設けて、用水を備ふ、又此池の上に古池と云あり、これも溜池の如くなり、もとは一つなりしが、水災のとき地形沿革して、此の如くなりしものにや、歌にも詠み名高き所なり、箱根ヶ崎村合はせみるべし、
水利 溜井 五ヶ所

神社 
稲荷社 見捨地、七八間四方、わづかなる祠なり、
山神社 除地、五段一畝六歩、南畑中にあり、纔(わずか)なる祠なり、村内円乗院の持なり、
神明社 字南分と云所にあり、これもわづかなる祠なり、傍にひらきの古木あり、囲み七尺許、其外にも古木多く見えたれば、古社なるべし、もとより鎮座の初め年代は失へり、
天狗社 これも同じ辺にあり、纔(わずか)なる祠にて、上屋は六尺四方、前に鳥居を立り、これも鎮座の初めを伝へず、
御領明神社 除地、六畝二十歩、小名内堀にあり、この辺を宮の下山根と云ふ、二間に三間の上屋を造りて、内にわづかなる宮をおけるなり、
末社 愛宕社 わづかなる祠にて、後の方にあり、

寺院
円乗院 除地七畝二十六歩、是も字南分と云ふ所にあり、新義真言宗、豊嶋郡石神井村三寶寺末なり、愛宕山東圓坊と號す、開山は賢誉法印と云、平治元年二月八日寂せり、本堂七間に六間半南向、本尊木の坐像二尺五寸許、又薬師の像八寸許なるを安置す、恵心の作成るよしをいへど、秘してみることをゆるさずと云、
鐘楼、本堂の正面に建つ、二間に三間、鐘は円径二尺二寸、このかね寛延二年十月住持乗誉の代に鋳成したれば、銘文に載せず、
愛宕祠 境内の鎮守にて、本堂の後にあり、小祠、下田七畝二十六歩の除地となせり
寶珠庵 字杉本にあり、里正勘右衛門代々の墳墓あり、其守りに造立せる庵なるよし、庵は二間半に四間半あり、本尊地蔵を安せり、木の立像にして長五尺許の古の作なりと云へり、

観音堂 字南分にあり、二間半に五間、南向、如意輪の座像木にて作る、丈八寸許り、
古碑 一基 長二尺余、貞治七戊申四月十九日とあり、
旧跡
陣屋跡 字杉本にあり、古へ逸見四郎左衛門住居せし所なりしよし、今は百姓九右衛門が住居となれり、
蔵屋舗跡 これも字杉本にあり、陣屋跡のもよりにあれども、逸見某の蔵屋舗と云にも非ず、ここの名主勘左衛門は、旧家にて其地につづきたれば、往古其家の蔵屋舗ありし跡なるべしと云えども定かならず、此所に杉の大木ありて蔵王の小祠を建つ、
旧家 百姓勘左衛門 もとは氏を石井といいしが、いつの比よりか改めて杉本と称せり、遠祖は春日丸と云、その二十五代の孫を石井勘解由といへり、この人大阪御陣の時、地頭逸見四郎左衛門と共に其役に出、それより今に至て三十六代此地に住し、代々名主役を勤めたり、旧家にて家系も蔵したれど、秘して見することをゆるさず、外に器物等あり上にのす、
枝刀 一 長三尺九寸三分、無銘ははきに丸の中に井の字の紋あり、形上の如し




行基焼三ツ いづれも素焼にて円き形なり、一は廻り四尺七寸、一は三尺一寸五分、一は二尺六寸二分、図は上にのす、


轡 古体にて細く銘あれど、定かには見えず、ただ河内国とみゆ、下に次の字あり

◎「下に次の字あり」
 記載なし

○宅部村(やけべむら)

 宅部村 宅部村は、宅部郷に係り、庄名は博へす、村名の事を尋るに、元は宅部の内内堀と云ひし所なりしが近き頃より宅部村とは唱ふるよし、江戸日本橋より行程九里半、四方の堺、東は清水村に続き、南は奈良橋・高木の二村に隣り、西は藏舖村に接し、北は山上を境として入間郡菩提木村に交り、東西凡八町、南北十四町許、民家四十二烟、地形は北に山をうけ、半ば平かにして半ば不平なり、土性山根には少しく眞土あり、この辺に水田を開き、山間の清水を用て耕耨(こうどう)の助となせり、陸田の方は野土なり、元は水口佐左衛門知行たり、後御料所となり大屋杢之助支配せり、それも次第にかわりて、今は小野田三郎右衛門信利の支配所となれり、

高札所 字内田にあり、

小名 内堀(西北なり)林(東北を云)廻り田谷戸
山川 山 北の方にあり、中央にもあり、登り一二丁許、
水利 溜池四ヶ所 字小澤、宮ノ下、堂ノ入、廻り田谷戸等にあり、この外悪水堀三条、村内を通、
寺院 阿彌陀堂 字内堀にあり、堂三間半に二間半東向、本尊木の立像、長一尺三寸許、清水三光院の持なり、



武藏名勝図会

陣屋跡

 後ヶ谷村にあり。文禄年中(一五九ニー九六)逸見某に賜い、住居の跡なりと云。いまはその家絶えたり。
 又、隣村芋久保村にも陣屋跡というあり。これも先年地頭酒井極之助という人の住居の跡なり。
 逸見氏は北条安房守(ママ)氏規が臣なり。天正十八年(一七九〇)相州厚木にて戦死せる四郎左衛門氏久が子にて、小四郎左衛門義次といい、その子弥吉というもの御当家に属したるものなり。