御林山196
宝暦十一年(一七六一)九月
三ツ木村・芋窪村・横田村御林伐払い願
乍恐以書付ヲ奉願候
一武州多摩郡三ツ木村・横田村・芋窪村右三ケ村名主・
惣百姓共奉願上候、拙者共村々地内御林之儀、是迄年
来立茂り候に付、別而近年猪鹿多ク籠、昼夜無隔田畑
作毛喰荒シ候間、昼夜不限百姓共見廻り防候得共、拙
者共組合離候村には四季打鉄炮御拝借仕、年中右鉄炮
ヲ以防候得は、拙者共村方之義は尾州守様御鷹場故
に、年中打候義不相叶、四月より七月晦日迄之間、鉄
炮御免御座候共中々防届キ兼、御林近所は不及申其外
田畑殊外荒、作毛一向実法り不申、村方年増に無何と
困窮相募り難義至極仕候、畢章近年猪鹿多ク来り候意
味は、最寄村々石畑村に而直竹山御林宮寺郷之内矢寺
村御林何れも御伐払に相成、跡地開発被仰付候並びに此外
御私領林之儀も御地頭様方より右同様に御伐払に相成
候に付、夫故に御座候哉、当時拙者共村内御林ヲ見掛
ケ参候様に乍恐奉存候、尤夥敷籠居防候事百姓手段及
兼甚迷惑仕候、依之奉願上候は、右御林雑木立曲節(まがりふし)木
之洞木立枯同前に而、殊に津出場悪敷候而御用木に伐
出シ被仰付候儀無御座候、此度何卒御林御伐払に被仰
付被下候様に奉願上候、左様に被下成候得は、右品之
義材木板類には難成木征に而、其上津出悪敷運送之失
却多ク相掛候間、過半鍛冶や炭に焼出シ、或は薪にも
伐出し相捌、冥加金上納可仕候、則御林反別並びに木数、
冥加金員数共に別紙ヲ以可申上候、尤跡地所之義新開
被仰付、鍬下三ケ年御免被成下候はば、地代金指上新
開仕、三ケ年過候はば御検地御高入に被仰付、土地相
応之御年貢上納可仕候、何分にも前書願之通以御慈悲
を被仰付被下置候はば、大勢之百姓相助り大分之御
救と相成、別而難有仕合に可奉存候間、御憐憫を以右
の通被為仰付被下置候様に偏に奉願上候、以上
宝暦拾壱巳ノ九月
伊奈半左衛門様
御役所
(三ツ木 増尾音治家三八七九)
意訳
宝暦十一年(一七六一)九月
三ツ木村・芋窪村・横田村御林伐払い願
乍恐以書付ヲ奉願候
一武州多摩郡三ツ木村・横田村・芋窪村右三ケ村名主・
惣百姓共奉願上候、拙者共村々地内御林之儀、是迄年
来立茂り候に付、別而(べっして=とりわけ)近年猪鹿多ク籠、昼夜隔てなく田畑
作毛喰荒シ候間、昼夜不限百姓共見廻り防ぎそうらえども、拙
者共組合離候村には四季打鉄炮御拝借つかまつり、年中右鉄炮
によって防いでいますが、拙者共村方では、尾州守様御鷹場故
に、年中打つことは叶わず、四月より七月晦日迄之間、鉄
炮の使用をお許し頂けますが、中々防ぎきれません。御林近所は云うまでもなく其外
田畑ことのほか荒れ、作毛一向に実りません。村方年増に何かと
困窮相募り難義至極であります。
畢章(ひっきょう=つまるところ)近年、猪鹿が多く来る原因・理由は、
最寄村々石畑村にて、直竹山御林、宮寺郷之内矢寺
村御林、何れも御伐払になり、跡地を開発仰せ付け、並びに此外
御私領林についても、御地頭様方より右同様に御伐払に相成りましたので、
それが理由で御座いましょうか? 当時、拙者共村内御林を見掛
け参らせたように、恐れながら、存じております。
もっとも、夥しく籠り居て、防ぐことは百姓の手段に及びかね
甚だ、迷惑をしております。
これによってお願い致しますことは、右御林の雑木で、立曲節(まがりふし)木
の洞、木立枯同前にて、殊に津出場(木材の積み出し河岸)が悪くて、御用木に伐
出を仰せつかることはありません。此の度び、何卒、御林を御伐払下さるようにお願い致します。
左様にして頂ければ、右品は材木板類にはなり難く木怔(もくせい・しょう=ケヤキ??)にて、
その上、積み出しが悪く運送の不便や手間から損失が多いので
過半、鍛冶や炭に焼出シ、或は薪にも伐出して捌きます。
冥加金を上納致すようにします。ついては、御林反別並びに木数、
冥加金員数共に別紙の通り申し上げます。もっとも、跡地所のことは
新しく開発を仰せつけられ、鍬下三ケ年御免除下されば、地代金を指し上げ、
新しく開発を致します。三ケ年が過ぎれば、御検地御高入を仰せ付けされ、土地相
応の御年貢を上納致します。何分にも前書願の通り、御慈悲もって仰せつけ下されば
大勢の百姓相助り大分の御救と相成、特別に有り難く仕合に存じます。
御憐憫をもって、右のとおり仰せ付けくださるように偏に奉願上候、以上
宝暦拾壱巳ノ九月
伊奈半左衛門様
御役所
(三ツ木 増尾音治家三八七九)
御林の開発(武蔵村山市史上925)
宝暦期から明和期にかけて、秣場利用だけではなく、御林の管理にも大きな変化が起きた。
宝暦二年(一七六一)九月、関東郡代伊奈半左衛門忠宥に対して、三ツ木村・芋窪村・横田村の百
姓から御林の切り払いと跡地の開発願いが出された(『資料編近世』一九六)。開発を望む理由は①獣害、②近隣の御
林の耕地化、③木材の津出しに不便であることの三点に絞られる。先ず①についてであるが、松木の生い茂った御林
には猪や鹿が多く生息し、昼夜を隔てず耕地に猪・鹿が現われ農作物を荒らす始末であった。村では鉄炮を用いて獣
害を防ぐことも試みられたが、尾張藩の鷹場に設定されていたために、鉄炮の使用も制限があり、十分な対策を講じ
ることが困難であった。
②については、直竹山や宮寺郷の内の矢寺御林が切り払われ、跡地の開発が進められていることがあげられてい
る。当該地域全体における御林利用の転換を村側も敏感に感じ取っていたと言えよう。
村むらでは、御林から切り出して木材を江戸へ輸送する際、柴崎村から多摩川を利用するか、あるいは新河岸・引
又河岸を利用していたと思われるが、これは、いずれにしても不便であったようである。③では、この点を取りあ
げ、河岸場までの距離が遠ければ御用木を命じられることもないとしている。
村側は御林の切り払いが許可された場合には、立木は炭・薪として売り捌き、冥加金を上納することを申し出てい
る。立木を炭・薪として売り捌く理由としては、木が材木として出荷できるほどの品質ではないこと、津出しの場所
まで遠いことをあげているが、江戸向けの商品としては炭・薪の方が需要があり、商品価値が高いことを認識してい
たのであろう。
また、跡地の開発については三年間は無年貢地とし、三年後に高入れした際には相応の年貢を負担するとした。御
林開発は当初、三ツ木村・芋窪村・横田村から出願されたが、その後、岸村・中藤村からも同様の願書が出された。
岸村では宝暦=年(一七六一)一〇月、村内で御林開発を取り決め、惣百姓の連判証文を作成した(『資料編近世」
一九七)。