志木街道
2011年7月23日
14:34
@志木街道
青梅街道が東大和市駅からほぼ北へ伸びて、奈良橋の交差点で左折する。そこを右折し、武蔵大和駅へ行く道が志木街道といわれる。
今は東村山行のバスが通っているが、昭和初期のころはさつま芋等の農作物を舟運のある志木の新河岸川へ運び、帰りには肥料の藁灰等を買って運んだ道でもある。奈良橋を右へ行くと庚申通りへの分れ道があり、さらに行って塩釜神社前のバス停の交差点を右折すると、塩釜神社への道となっている。
武蔵村山から続いている村山三里といわれたカーブの多い通行するには気の抜けない所だが、狭山派出所の三角の屋根と赤い丸い電気が目に入った。おやっと思ったのは廻りのたたずまいに比べて建物が白く、附属している派出所も新しく感じられたからだ。この派出所は五年前に改築をして、この辺りの交通に目を配っている。見通しのつかないカーブの多い危険な道で、最近は小学生も事故にまき込まれている。
少し先には高木の元私領名主の宮鍋家の地所を取りまくように、道は大きく左へ曲っている。狭山に入ると角屋の脇を左に入り、火の見に沿って右へ道なりに行くと再び志木街道に出る道になる。こちらの方が旧道で、この間の志木街道の三〇〇㍍くらいは大正初期にできた新道である。
お年寄からの聞き書きでは伝兵衛という人がいて、その息子が行方不明になった。地蔵をたてて祈ったら帰って来たといわれ、それからは伝兵衛地蔵、子育地蔵としてお参りをする人が多い。子ども
を亡くした人も供養をしている。その伝兵衛地蔵は旧道の脇にある五十嵐家の地所内にあったが、新道ができて道の向い側に移された。市役所から角切りをしたいので地蔵を移転してほしいとの話もあったが、その道で電柱の折れるくらいの事故や、その他の大事故も何回かあったが皆助かっている。これは地蔵様が守って下さるからだろうと、今もそのままの場所に立ち交通安全のお守りになった。
貯水池入口のバス停を過ぎると、左側に少し入った所に消防団の建物と並んで清水の観音堂がある。狭山十五番の札所で、昔は藁屋根の趣のあるお堂だった。ここまで来れば武蔵大和駅はもう近い。大きく曲って銀杏の大木が目に入ると、左に武蔵大和駅の入口がある。そこを過ぎると道は東村山市に引きつがれる。
(東大和市史資料編9道と地名と人のくらしp29)