慶応3年末江戸混乱と農兵隊

慶応3年末江戸混乱と農兵隊

12月9日、「王政復古」が宣言され、天皇親政による新政府が誕生しました。
12月11日、慶喜将軍辞職の勅許を布告します。
 しかし、徳川家廃絶までは到らず、徳川家主導の合議体形成の道が探られていました。
 薩長の討幕グループは、討幕まで進めるため、薩摩浪士隊による江戸の撹乱工作を進めます。
12月11日、荻野陣屋(厚木市荻野)を薩摩浪士隊が攻撃して、武器弾薬を強奪する事件が発生しました。
 小田原藩の出兵によって鎮圧されましたが、残兵対策に、多摩の小野路農兵隊が出動しています。
 この対応に、芝新銭座の江川役所の警備が必要となり、
12月18日、江川太郎左衛門役所から武州の農兵200名の派遣が命じられました。
 各組合村は派遣に反対し、それぞれ免除の嘆願を行いました。
12月20日、江川太郎左衛門役所から江川邸警護に、農兵を差し出すべしとの「御書付」が蔵敷組合村役人に届けられました。(里正目誌)
12月23日、江戸城二の丸が焼失する事件があり、薩摩藩士放火との噂が広まります。
12月23日、蔵敷組合惣代野口村名主と後ヶ谷村名主が江川役所に農兵派兵「御免」願(24日付)を提出しました。
 江川役所は「殊の外ご立腹の上」両人は宿預けになってしまいます。
12月24日、旧幕府は江戸に戒厳令を施行します。
12月25日、旧幕府側の手によって鹿児島藩邸の焼き打ちが行われて、戊辰戦争へのきっかけとなりました。
 これを機に、23日から29日まで、7日間滞在(里正日誌)させられた野口村名主と後ヶ谷村名主は帰宅を許されました。
◎この時点で、多摩の村人達は、領主に対して自らの主張を明確にするようになっていることがわかります。


 12月9日、「王政復古」が宣言され、天皇親政による新政府が誕生しました。10月14日、大政
奉還以後、紆余曲折を重ねながら、鹿児島・名古屋・福井・高知・広島藩兵が警護する宮中での出
来事でした。続いて、12月11日、慶喜将軍辞職の勅許を布告します。

 しかし、当時の公議政体論は、徳川家廃絶までは到らず、徳川家主導の合議体形成の道が探られ
ていました。薩長の討幕グループは、一挙に討幕まで進めるため、薩摩浪士隊による江戸の撹乱工
作を進めます。商家や江戸市民への乱暴と共に、12月11日には、荻野陣屋(厚木市荻野)を薩摩
浪士隊が攻撃して、武器弾薬を強奪する事件が発生しました。小田原藩の出兵によって鎮圧されま
したが、残兵対策に、多摩の小野路農兵隊が出動しています。

 この対応に江川家も当たっていたことから、芝新銭座の江川役所の警備が必要となり、12月18
日、江川太郎左衛門役所から武州の農兵200名の派遣が命じられました。この時期の江戸への農兵
派遣は、戦闘の可能性が高く、危険が想定され、また、農兵制度の趣旨から各組合村は派遣に反対
し、それぞれ免除の嘆願を行いました。

 東大和市域の村々には、12月20日、江川太郎左衛門役所から芝新銭座の江川邸警護に、農兵を
差し出すべしとの「御書付」が蔵敷組合村役人に届けられました。(里正目誌)
12月23日に江戸城二の丸が焼失する事件があり、薩摩藩士放火との噂が広まります。
12月23日、蔵敷組合惣代野口村名主と後ヶ谷村名主が江川役所に農兵派兵「御免」願(24日付)
を提出しました。江川役所は「殊の外ご立腹の上」両人は宿預けになってしまいます。23日から29
日まで、7日間滞在(里正日誌)させられました。
12月24日、旧幕府は江戸に戒厳令を施行します。そして、25目、旧幕府側の手によって鹿児島
藩邸の焼き打ちが行われて、戊辰戦争へのきっかけとなりました。
 こうした背景から、野口村名主と後ヶ谷村名主は帰宅を許されたのでしょうが、武蔵村山市史は
『もはやこの事態は、倒幕をめぐる藩同士の戦闘行為であり、村の自衛を目的とする農兵の動員な
謹どという囎ではなくなっていたのである。』(『武蔵村山市史』上p1204)としています。