持寶院(東大和市の修験)

持寶院(東大和市の修験)

清水村
 本山派、聖護院宮末、小田原玉龍坊配下府中門善坊末。
 西武新宿線武蔵大和駅の西側一帯に本拠を置いていました。
  『武野遊草など著作の多い大久保峡南は十二世柳光の弟です。
 江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』には記載がありません。

『狭山之栞』 
持寶院

 本山修験大聖山持寶院は、森御殿聖護院宮御末、小田原玉龍坊配下府中門前坊霞下、多摩郡中取締役也。先祖大久保掃部は武家にして江戸之人也。復飾して本山修験となる。元祖宗山は金剛院と号し、二代柳覚は持宝院と号し、三世慶岳、四世良山、六世英岳、七世宗岳、八世俊海、九世源海、十世良源、十一世慶伝(中興開基也)、十二世柳光、十三世柳観、十四世柳證、十五世有慶、十六世陸通、十七世恵俊、十八世康栄に至る。始め大清山と号し、後大聖山と改称せり。

 七世の宗岳は俗名彦五郎、江戸の人也。尚、祈願檀家には旗本衆多く、上田(三千石)三好(二千五百石)三枝氏等帰依せり。三枝氏は六千石にして久米村の先の地頭なり。護摩壇一面の奉納の銘に
   施主 三枝摂津守守相 同 奥方
       同 宗四郎守行 同 奥方
 右の外家中齋藤杢之丞美政、小尾四郎左衛門賢一、友須賀十郎右衛門宗鋪外九十六名
 護摩檀施主   三好唯次郎長榮
 光壽院
 燈明施主 家中菊油門大夫武治外二十六名
 右施主 御武運長久祈所
    正徳三癸巳(1713)三月 法印慶伝

 尚天和三年(1683)亥八月十三日府中門善坊より持宝院宛の古書存す。
     正徳三癸巳年三月

 元緑十四年(1701)七月朔日平田氏甲之進奉納桐木太刀
 略

 『里正日誌』


・天和三年(一六八三)「持寶院継目に付門善坊より下し文」
・宝永元年(一七〇四)「宝永元年清水村持宝院御差置」1p221
・天保十四年(一八四三)の『清水村村鑑明細帳』に「御除地」として「境内一反歩本山修験持寶院」
 の記載があります。
・下の大日堂の本尊である石造大日如来像の銘に持寶院の名が刻まれています。

とくに、「宝永元年甲申清水村持宝院御差置」(1704)では、地頭が持宝院に三石を与えたことと、次のように経歴を記します。

三石之事      清水村
            持宝院
右志は正五九月、日待為祈祷無懈怠(けたい)、依永差置者也
 宝永元年甲申九月
               浅井七郎左衛門印

 右持宝院は初め大清山と云ひ後に大聖山と号し、本山
修験小田原玉龍坊配下府中門前坊霞下にして、多摩郡
修験の取締なり、元祖大久保掃珠江戸の人也、落飾し
て宗山金剛院と云、二代柳覚持宝院と号す、三世慶岳、
四源良、五良山、六英岳、七宗岳、八俊海、九源海、
十良源、十一代慶傳、中興開基享保十六年六月十六日
没、十二代柳光、(弟狭南先生元文二年丁巳生、文化
六年十二月廿五日年七十三没于(う、ここ)江戸)、十三代柳観、
十四柳證、十五有慶、十六陸通、十七恵俊、十八世養
子也康栄也、康栄ハ明治の初復飾して神官となり、明
治十五・六年の比廃さる、其時六十才位也「康栄の養
子を大久保欣平といふ」

 清水村 本山派 
 江戸に住んだ武家の大久保掃部が入道した
 大日堂の本尊である石造大日如来像に持寶院の銘が刻まれています。
 東大和のよもやまばなし、モニュメント「火をふところ入れた法印さん」の主人公
最初江戸に住んだ武家の大久保掃部が入道し、本山修験となる。その時期は明らかにされていないが、始祖宗山は金剛院を名乗り、二世の柳覧は持實院と号し、その後三世慶岳、四世源良、五世良山、六世英岳、七世宗岳、八世俊海、九世源海、一〇世良源、十一世慶博、十二世柳光、十三世柳観、十四世柳讃、十五世有慶、十六世陸通、十七世恵俊、十八世康にいたる。