教育
明治末期、小学校の義務教育は、六年と記憶している。ほかに高等科があり二年制になっていた。いわゆる尋常高等小学校である。高等科は義務制でなく、希望者のみ進学していた。
小学校は三校あって、その位置を地形的に見ると、狭山丘陵をはさんで、北側に谷戸(現在の村山貯水池)を有し、南側のふもとに面して、東西に長く点在した閑静な村落にあったのである。
児童の通学に便宜をはかり、村の中央に一校、東西に一校ずつあった。就学児童は行政上の区画に従って、おおむね定められた学校に通学した。私は東側にある狭山の小学校である。
自宅は現在湖底に沈んでいる、狭山村字内堀である。学校までの距離は、途中に川あり、田んぼあり、曲りくねった坂道を越えて行くのだから、三キロは充分あったと思う。
夏の長雨のときなどは、自宅からハダシで、下駄と弁当箱を腰に結びつけ毎日よく通ったものだ。その弁当もお正月中は、家でついた餅をもっていくから、まずまず上等の部類だが、それ以外は、さつま芋が常食だ。全体の八〇パーセントをしめている。そのために、昼食時には児童の中から、交代で毎日芋の皮集めをしたり、あと片付けをする当番がいた。
また、冬期になっても暖房装置は勿論なく、教室の片隅に大きな角火ばちが備付けてあり、まきを燃やして暖をとったものだ。そのまきも生徒の供出で、各クラス毎に割当が定められているから、当った者はよく枯れたまきを五、六本ぐらいずつ背負ってくる。方々からくるので相当数集まる。こうして冬の期間中は過ごしていた。
静かな田舎のさとにも、遠慮なく不景気風は吹きまくってくる。その余波を受けてか、先生の給料が時々遅滞していた。役場から給料がもらえない時は、家庭訪問をかねて児童の家から未納の村税を先生自からもらっていくのだ、と聞かされていた。それほどまでに当時の生活状態は深刻をきわめていたのである。時代の格差こそあれ、現在の賃上げストとは対照的だ。
内堀小十郎 ふるさとの今昔p11