新しく設けられた町名

新しく設けられた町名

新住居表示の概要

 東大和市の町名地番整理は昭和四十八年から五十六年にかけて進められ、現在の形になった。町名決定については「由緒ある親しみ深いもの」を考慮したという。旧村の基になった六つの大字名のほか、なじみの小字名や通称名が生かされ、十七町に区分された。地元の歴史や由縁が大事にされたという感じがある。

 江戸街道(新青梅街道)より北は、もともと旧村の根拠地であり、ここに旧大字名の六町と「多摩湖」「湖畔」の二町が生まれ、以前の地番がそのまま生かされた。街道の南側の地では、「上北台・立野・仲原・向原・新堀」の町名が旧小字名から復活した。「桜が丘・清原・中央」は新たにつくられた町名であったが、「南街」はすでに市外にも広く通用する呼称で、別格であった。

 文化遺産ともいえる地名が町名として多く生かされたのは幸運であったが、地番の整理は不徹底であった。同じ町域で一部分のみ新しい地番がつけられたところがある。結果は一桁の新しい番地と、四桁の古い番地が隣り合っていたりもする。また「湖畔」にみるように、もともと狭山と奈良橋に分かれていた隣接区域を、番地はそのままで一つにしたため、統一性がなく居住者に不便を強いているところもある。

南街の誕生

 「南街」の呼称は以前から住民の間で慣れ親しんできた地名であるが、昭和五十五年に初めて正式な町名として誕生した。すでにのべたように南街地域の発祥は、昭和十三年頃から設けられた、日立航空機の社宅や寮などの住宅街にあった。当時純農村地帯の大和村では、現在の新青梅街道より南は広大な畑地で、ほとんど無人地帯であった。

 ここに、にわかに「マチ」ができた。昭和十八年にはすでに、日立の社宅地域が、大和村の全戸数の三分の一を占めていた。主として現在の東大和病院の南側の一画と、富士見通りに沿った地域であった。

 呼称については、昭和十三年の村議会でこの一帯を一区画とする通称を定めたいという提案があり、当時の村長の発案で「みなみまち」と呼ぶことになったらしい。単純に「南のハラにできた町場」の意味であったのであろう。ただ文字としては当初から「南街」と表記したようである。「大和村南町」には違和感があったのではないか。戦後しばらくたったときには「ナンガイ」の呼び方が市民権を得ていた。

 「南街」が正式な町名になったが、地元の年配者の中には別な感覚がある。かつて畑地であった市の南半分の開発地は、どこでも南街という気持ちがある。いわば広義の「南街」で、以前何となく「みなみまち」と呼んできた気持ちが、今もかなりの人の中に生きているように思われる。

上北台と立野について

 上北台駅は多摩都市モノレールの北の起点である。モノレール線の西側で、新青梅街道と桜街道にはさまれた地域が、町名「上北台」である。この地はもともと「北台」と「南台」といわれたところで、それぞれに「上・中・下」(かみなかしも)の小字があった。いわば上北台という小地域が町名として昇格した。多分この小地域にすでに「上北台団地」が存在し、その名が確固としたものになっていたことが理由だったのではないか。

 北台も南台も文字通りの台地上にある。狭山丘陵沿いの旧村からみれば、空堀川を南に越えて急に小高い台地に駆け上がり、そこから広大な畑地が広がっていた。「台」のつく小字名はこの他にも市内には多い。「砂台」「上の台」「上砂台」のほか、単に「台」という小字まであった。

 蔵敷地域の小字「台」は、芝中団地の北側で、村からは奈良橋川を南に越えて、一段と高くなった場所である。台の地名について、柳田国男は「上の平らな高地で、物の台の形からきている」という(『地名の研究』)。まさにそういう地形のところであった。

 この小字「台」の地を東西に横切る昔ながらの風情をもつ道が通る。「台の道」で、西に向かっては折れ曲がった奈良橋川に突き当たる。地元の人は「でえの道」と呼んでいる。

 町名「立野」は上北台の東側の地域である。
 この地を南西方向に斜めに走る、古道「八王子道」が突き抜けている。
 東大和市内にはもともと「上立野」「下立野」と呼ぶ小字があった。しかしそれは現在の立野とは別の場所で、名前だけを町名に借用したものらしい。かつての小字立野は東大和警察署や「下立野林間こども広場」が含まれる場所で、新青梅街道と空堀川にはさまれた区域であった。現在でもここに「立野墓地」と呼ばれる一画もある。

 「立野」や「立林」という地名は全国的にかなりあり、一般的には農民の入会地や、大名・城主の立ち入りを禁止する直轄地であることが多い。八王子城主北条氏照も、八王子城建設の用材確保と思われる立野・立林規制をしきりに行っている(『薬王院文書」『広徳寺文書』等)。立野は勝手な立ち入りや伐採を禁止する意味で、「断つ野」であったのかなどと、想像してみる。

 ふるさとの小字立野は、万治元年(一六五八)芋窪村民二十五人に、ひとり一反三畝六歩ずつ配分し、開発したという(『大和町史』)ので、村の入会地としての「立野」だったようである。

 市内にはもう一か所類似の地名である、小字「立野窪」がある。清水三光院の南あたりで、空堀川に向かって次第に低くなっている地域である。雑木林として残っていたので、ここも村民共用の入会地であったのではないかと思われる。

桜が丘と新堀について

 「桜が丘」は東大和市の南西部で、桜街道と西武拝島線の鉄路にはさまれた三角地帯である。町名は桜街道にちなんでつけられた。この区域には都立東大和南公園や東大和南高校のほか、高層住宅群や工場群など、大きな施設がいっぱいある。

 実はこの場所は、戦時中の旧日立航空機会社の工場地帯であった。その後昭和二十八年から四十八年まで、大半が米軍大和基地として接収されていたという、数奇な運命を経たところでもあった。

 「桜街道」は江戸時代後期には、青梅橋付近から武蔵村山にかけて、多摩千本桜と称されるほどの桜の名所だったといわれている。その後は道の真ん中に植えられた桜並木として有名であった。明治初期に村の青年たちが植樹したものという。多分この記憶と懐旧が「桜街道」と呼ばれる由縁になったのであろう。

 戦時中日立航空機が大爆撃を受けたとき、すぐ脇の桜並木も戦火を受け、枝葉が焼かれて惨めな姿になった。敗戦から二年後、街道の北側に新制中学校ができたとき、一抱えもある桜の老木は幹だけをあらわにした姿で、それでも道の真ん中に列をつくっていた。中学生だった私は夕方下校時に、畑中に小さくなって沈んでいく古木の連なりを、不思議な感慨をもってよく眺めていた。

 町名「新堀」は、野火止用水に接する南東端の地域である。野火止用水は「伊豆殿堀」ともいわれるが、東大和市内ではほとんどの人が「新堀」と呼んできた。またこの地域にはいくつかの新堀のつく小字名もあった。

 野火止用水を新堀と呼ぶのは、玉川上水に対してであるが、小川橋付近から上水の北側に沿って流れる一メートルほどの小流を呼ぶ名でもある。実は明治初年に一時期だけ、上水の通船が許された。このとき幾つもの分水を整理して新たな堀を造ったものがこれである。小平市の資料集によると、このとき野火止用水もふくめて、北側の分水を「新堀」と呼ぶことにしたらしい。私たちの先祖が「新堀」の言葉を使い始めたのはこのときからであるのかも知れない。

 江戸時代前期、ふるさとでは野火止用水近くまで開拓していた。そのときは「堀端・堀際・水道際」などの小名が使われていたことがわかっている。「新堀」の小字名があったのは、「江戸街道」を「東京街道」と読み替えた、狭山と清水の両部落であったので、ここも地租改正の時期に、新しい言葉としての「新堀」に統一したのかも知れない。

 現在「野火止緑地」は貴重な雑木林として保全されているが、私の子ども時代は今の新堀地区に広がるさらに大きな林だった。しかも今の林よりずっと明るかった。赤松やコナラの混じる木の下は、短い下草があるのみで、どこまでも明るくのぞけた。林の中の細道にまぎれ込んで、多分「キツネノカミソリ」か「ノカンゾウ」だったのだろう、あちこちに咲くオレンジ色の花を見て、子ども心に感動した覚えがある。

向原・仲原・清原その他町名

「向原」「仲原」「清原」は、文字通りかつての畑地を象徴するもので、南部の地域名である。このうち「清原」だけは小字名がなく、「清水地域の原」の意味で名づけられたという。小字「向原」は市域の南端の地で、北部の本村地域から見て、「新堀」とともに最も遠い場所であった。中間の畑地には「仲原」や「中原」の小字名があったが、仲原の方が気に入られたらしい。

 残る町名のうち「中央」は、市役所を含む地域で、青梅街道をはさむ東西の地である。「多摩湖」は村山貯水池内、「湖畔」は多摩湖下貯水池の南側に位置する区域である。

 「湖畔」の地のほとんどはかつての小字「廻り田谷ツ」という場所で、真ん中に「狭山たんぼ」を抱え、南北の丘陵地が西に向かって狭まっていく谷地であった。昭和四十年前後から田んぼは埋められ、北の丘陵地は住宅地に様変わりした。

 かつてこの谷地をつくる丘陵と狭山たんぼの風景は、まことに穏やかで豊かなものであった。地元の子どもたちは、のんびりと田んぼのあぜ道を歩き、花を摘んだりドジョウとりやイナゴ追いをして遊んだ。そしてとくに秋の取り入れ時期になって、田んぼが一面に色づいたとき、子ども心にも神々しいような美しさを味わった。まさに里山らしい里山の地であった。

内堀輝志 東やまとの散歩道p59~67