新聞購読会(東大和市)

新聞購読会(東大和市)

 明治14年(1881)、東大和市域の村々で新聞の共同購入、回覧読みが始まりました。新聞は高価でした。個人ではなかなか購読出来ませんでした。時の動き、自治を学ぶ衆楽会の発足に刺激されて、村人達の間に、それらをさらに広く、敏感に捉えようとする活動が広まったものと思われます。

蔵敷村新聞購読社

 明治14年(1881)11日、内野杢左衛門を中心として8名による「蔵敷村新聞購読社」が結成されました。メンバーは次の通りで→の順番に廻りました。

 内野杢左衛門→内野長吉→内野吉次郎→鈴木泰蔵→鈴木重蔵→小島関太郎→小島吉次郎→石原権右衛門。鈴木重蔵が会計係を担当しました。

蔵敷稿札場と内野家 ここを出発点として新聞が回覧された クリックで大

 仕組みは、毎月一人15銭ずつ出し合って、二日二夜で読んで次の会員に回しました。新聞は郵便で取り寄せました。読む新聞は
・「曙新聞」、「読売新聞」から始まり、
・「驥尾団子(きびだんご)」「人情雑誌」、「面白奇聞」
・明治149月から153月まで「朝野(ちょうや)新聞」
・その後は「東京横浜毎日新聞」
 になりました。「朝野新聞」「東京横浜毎日新聞」は民権派新聞として、この面の情報提供源として読まれたようです。両紙とも自由民権演説会に講師の派遣をして居ます。

 五日市憲法の里の深沢文庫(あきる野市)の役割が大きかったように、『東大和市史は「民間の図書館と位置づけることができる」としています。しかし、厳しい経済状況と「当時の農業に従うものの、新聞を読む暇も無いほどの厳しい農業労働」(『大和町史369)が重なったのか、明治16年(1883)に解散しています。
                
高木村新聞購読・回覧グループ

 新聞購読・回覧グループは、蔵敷村よりも早く、明治13年(1880)、高木村で行われていました。資料が少ないので詳細が不明ですが、「宮鍋庄兵衛家、清五郎家、尾﨑宇兵衛家の三軒で新聞を共同に取り、一軒で読み終わると子守女が届けに行った」と『大和町史は伝えます。(『大和町史』p369

高木村の新聞購読 当時は舗装されず、どろんこの道を子守さんが運んだ クリックで大

 高木村新聞購読・回覧グループは、丘陵の麓から空堀川の南まで広がり、この間を新聞が行き来しました。

新聞購読と村の自由民権

 明治13年(1880)から明治16年(1883)まで続いた新聞購読は丁度、東大和市域で自由民権学術演説会が行われる時期と重なります。『大和町史』は次のように記しています。

 「このように明治十三年代に期せずして新聞回覧グループがあちこちに出来上ったということがらの中に、村に新聞が入ってくる一つのきっかけが自由民権運動にあったことを思わせる。政治とは縁遠かった村が、自由民権運動にまきこまれ、それをきっかけとして新聞が入って来る。そのことはまた村の中の一部の人であろうが政治意識の高まりを生み出し自由民権運動、更には県会政治に少なからぬ関心をいだかせて行ったであろうことは疑いない。」(『大和町史』p369

 東大和市域では
・明治14年(1881)5月6日 芋窪学術演説会(昇隆学校)
・この頃、千葉卓三郎が東大和市奈良橋鎌田家に滞在
・明治14年(1881)9月25日 狭山自由懇親会(円乗院)
・明治14年(1881)11月21日 奈良橋自由懇親会(雲性寺・奈良橋学校)



 で、演説、懇親会が開かれます。芋窪学術演説会では、集会条例の制定もあり、八王子警察署署長、箱根ヶ崎分署長が視察しています。以後、懇親会と名前を変え、狭山自由懇親会では千葉卓三郎が参加し、奈良橋自由懇親会では、参加者が狭山丘陵周辺の村々の人々へと広がっています。次に続けます。

(2019.11.02.記 文責・安島)

衆楽会  初めての村会

東大和の歴史・現代


明治13年の動き
117日、八王子に第十五嚶鳴社が設立される。(相沢源七『千葉卓三郎の生涯106)『五日市町史17日とする。(p691
◎明治13年(1880)4月、五日市学芸講談会発足(『五日市町史p695
7月、浅草で行われた政談演説会に内野嘉一郎出席、卓上演説をする。
1110日、第二回国会期成同盟大会開催、憲法見込案持参研究が定められた(『五日市町史p694
1210日、自由改進党盟約を起草(内野家にあり=自由党準備段階)
◎(千葉)卓三郎の秋川谷の足どりははっきりしないが、明治十一年頃からこの谷に入り、二、三の学校を転々とした形跡がある。そして明治十三年春から五日市町と舘谷、入野、深沢三村の共立小学校である勧能学校に勤務することになり、その居も五日市町内に移している。(石井道郎『戸倉物語p59)



内野家  (関係資料が保管されている内野文庫)
 この時代に活躍した内野家に残る文書は多くあり、特に、「里正日誌」は各市から歴史資料に引用されるほど内容が豊かです。東大和市の文化財に指定されています。これらの文書が保存されているのが右画像の「内野文庫」です。
 内野家は、「慶長七年(一六〇二)以前より、現在の蔵敷に居住していたといわれる。内野家が蔵敷村の里正、すなわち名主役に就任したのは寛延二年(一七四九)からである。」とし、代々杢左右衛門を名乗ります。中でも、里正日誌の編者と目され、特に自由民権運動に関わったのは「嘉一郎」と命名された諱徳隆、号秀峰の杢左右衛門です。
・安政三年(一八五六)に敷隆の子として生れ、嘉一郎と命名された。
・明治三年(一八七〇)十五歳で名主見習となり、同五年(一八七二)十七歳で戸長となった。
・明治十二年(一八七九)二十三歳で第一期神奈川県会議員となり、同二十年(一八八七)まで八年間議員を勤めた。
・その間、同十三年二十四歳のとき国会期成同盟に参加し、翌十四年自治改進党にも参加した。
・この頃、新聞購読会を結成し、民権系の「曙新聞」「東京横浜毎日新聞」「朝野新聞」などの回覧や民権運動の普及に努めた。
・明治二十二年(一八八九)三十三歳より昭和三年(一九二八)七十二歳まで高木村外五か村組合議員と大和村会議員に連続当選し、実に三十九年間にわたり公共に尽力した。
・昭和五年(一九三〇)三月二日、七十四歳で死去した。(『東大和市史資料編7p15)