日立航空機(株)送電線
シリーズゼノア物語 立川工場の出来た頃その4 p32~33
◎変電所は今のを見てくれ
現、変電所は、当時のもの。今なお、弾痕を外壁に残して、活躍している。初期の一つの配電盤は今も稼動している。
その厳丈さと、屋外トランス群を囲んだコンクリートの防弾壁の効果で、爆撃直後にも送電可能だったのが、自慢の種。
◎今と昔のちがい
今は、東京を囲む環状高圧線が完成し各発電所と接続され、どこの電気とは言えなくなったが、当時は系統別であった。電気容量を比べると、今の感覚では、よくこれで1万人が賄えたとも、見えるが、当時は、なかなかの大工事であった。
受電電圧66キロボルト、契約電力 1600キロワット トランス1000KVA3基
電力
◎電力はどこから来たか(地図参照)
当時の村を走る電線には、これだけの工場用電力の負荷をかけることは、できない。どこか、高圧線から分岐させて、工場へ引いて来なければならなかった。
山梨県を流れる桂川の上野原付近に、八ツ沢発電所(42千キロワット)があり、都心に送電している。その途中、府中変電所より所沢、川越方面への分岐「所沢線」があり、東大和市駅の東方を北上している。ここから、特に高圧線で分岐して貰った。
◎分岐点と専用高圧線
今の向原四丁目になるが、立派に整備し直されている。当時は、全く畑の中で、高い所沢線から、中背の当社向の專用高圧線に、太い線が、だらりとおりていたのみであった。それから畑の中を横切
り、社宅街の上を越して、市立2小の西側を通る位置は、今と同じであるが、スケッチのように、黒色の二本の木の柱を組んだ電柱に、今は、この辺にはない大きな皿型の碍子(垂直碍子)がつけてあった。規格は66キロボルト、即、二回線である。