朗読原稿訂正
千葉卓三郎を始め、民衆の熱い思いから生まれた五日市憲法草案。
一体どういった内容なのか、是非目を通していただけたらと思います。
では、次に千葉卓三郎と東大和との繋がりについてお話致しましょう。
草案の仕上げをしていた頃の卓三郎には精神の集中が必要でした。
小学校の教員との両立が難しく、五日市を離れたいと考えていたとの記録もあります。
卓三郎の隣の家は鎌田屋と呼ばれる家で、この家の本家は東大和の奈良橋にありまし
た。
「先生、家の本家には年頃の男の子が三人もいる。その家庭教師でもやったらi」
その言葉をきっかけに、一時五日市を離れ東大和市の鎌田家に滞在する事となりまし
た。
鎌田家の次男喜十郎は、千葉卓三郎に心酔し、墓碑に「千葉先生仙台の人」と彫ら
せた程です。是非、奈良橋の墓地に足をお運び下さい。
ところで、東大和の自由民権運動はどのように始まったのでしょうか。
明治十一年、三多摩で最初の民権学習結社として内野喜一郎らを中心として「衆楽会」
という結社が発足しました。
その開講式の祝文には次のような事が書かれています。
※メンバーの一人が、講座の中で原文を訳しましたので、それを紹介します等を入
れるのも可。講座の一環と繋がり面白いかと思いましたので。要相談)
同じ志を持つ郷党の学士達が、「自治の道を究めよう」と結集し、月に1鳩2回集会し
て切磋琢磨し、文を講し、書を評し、詩歌を詠す事を主な活動とする。
年齢や地位、職業を越えて参加者が集まった、まさに「衆楽」の名にふさわしい開講
式だったと言えます。
明治十三年春には、衆楽会のメンバー達は、芋久保村で、学術演説会を開催します。
この地域としては初めての「チラシ」による宣伝を行いました。
同じ年の秋には、千葉卓三郎を迎えた鎌田家の長男喜三の発起人となった
奈良橋村の「自由懇親会」が行われます。
内野家の記録にると、天気も悪く足元の悪い中たくさんの人々が参加し、
懇親会は夜中まで続いたと書かれています。
東大和で、いかに自由民権運動が盛んだったかが分かります。
これまで、五日市憲法草案と、東大和の自由民権運動についてお話してきました。
最後にもう一度、私達受講生の感想をご紹介したいと思います。
東大和市が、自由民権運動の先駆けであった事を知る事が出来た。
寺や新聞が自由民権運動にとって重要な役割をしていた事を知った。
自由民権運動が広がったのは、新政府に対する幻想が崩れたため、自然な事だった
ように感じた。
私達の朗読劇いかがだったでしょうか。
私達はこの講座で、もしかしたら千葉卓三郎が東大和で五日市憲法を完成させたの
ではないかと、ドキドキしながら学びました。
皆さんもこれから一緒に東大和と五日市憲法・千葉卓三郎について学んでみません
か?
本日はご来場いただき、ありがとうございました。
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