村に戸長が置かれた

村に戸長が置かれた


(2)地方自治の土台が出来た
 急速に推し進められる近代化の過程で、村人達にも新政府の実態が見え始め、徴兵令や地租改正に対する反対運動などの激化とともに、自由民権への関心が高まってきました。脆弱な地方と世界に追いつけ追い越せの中央集権国家形成のきしみとも云えます。政府は、地方制度の整備に着手しました。

自治の基礎に「村」が置かれた(地方制度の始まり=三新法)
 明治11年(1878722日、政府は地方制度のもとになる三新法と呼ばれる法律を定めました。
  郡区町村編制法、府県会規則、地方税規則です。
 「大区」、「小区」制は強引な地域割でした。同時に統治機構としては曖昧な存在でした。その問題点を改め、自然集落の「村」を基礎単位として、国・県・郡・市町村の一体化を図る必要がありました。三新法の理由書には
 『区を置き区戸長を置く、制置宜しきを得ざるのみならず、数百年慣習の郡制を破り、新規に奇異の区画を設けたるを以て頗る人心に適せず、又便宜を欠き人間絶て利益なきのみならず只弊害あるのみ・・・』と書かれました。
 地方行政区画としての「郡」の位置づけを明確にするとともに、沸き上がる民主主義の要求に応える「府県議会」の設置と地租だけに基礎を置く税制の改革が主眼でした。
 この時、東大和市域では、早くも他に先駆け、芋窪村(石川)の蓮花寺で自由民権運動の結社「衆楽会」が結成されています。その目標には「自治の道を究めよう」と掲げられていました。
郡をつくった(郡区町村編制法)
 明治11年(18787月、郡区町村編制法が布告されました。「大区」、「小区」制の反省から、伝統的な自然集落の「町・村」を自治の単位とすることにして、町村と府県との間に地方行政区画としての「郡」を設けました。府県が、当時7万を超す数多い町村を直接把握するのは困難でした。効率的、直線的な国の政策・命令伝達に、町村をまとめて把握する組織が必要でした。そこで
  国―→府県――――――→町村
  国―→府県―→「郡」―→町村
 として、郡を「行政上の区画」として設け、「官吏である郡長」を置きました。郡長は町村を監督する役割を持ちました。
 多摩郡は郡の区域が広いため、明治11年(1878)1118日、東、西、南、北の4郡に分けました。三多摩の誕生です。この時の北多摩郡はおおむね、十、十一、十二の3大区で編成されました。1131村、戸数11,749戸、人口62,643人でした。これまでの区長は1030日に廃止され、郡長は1118日、砂川源五右衛門が任命されました。郡役所は122日、府中番場宿106番地矢島九兵衛家に置かれました。
 郡長が管掌する事務は
①国税・地方税の徴収および不納者の処
②徴兵の取調
③身代限・財産の処分
④逃亡・死亡・絶家の財産処分
⑤官有地の倒木・枯木の売却
⑥電線・道路・田畑・水利の妨げとなる官有樹木の伐採
⑦河岸地・借地の検査
⑧遊猟などの威銃の所有
⑨印税・罫紙の売捌
⑩小学校資金
 などでした。相当の権限を持っていたことがわかります。東多摩郡は聞き慣れませんが、中野、杉並地域でした。東京府に属していて、後に南豊島郡と合併して豊多摩郡となりました。
村の長=戸長が選ばれた
 村には戸長を置きました。明治11年(1878)7月の太政官達で「行政に従事すると其町村の理事者たると二様の性質の者」されました。
 「行政事務に従事」と「町村の理事者」
との二面の性格を持っていました。
 戸長の受け持つ「行政事務二従事」は「県令や郡長を通じて指令される委任事項を町村で実施する」ことにありました。具体的には、
 布告・布達の公示
 地租および諸税の上納
 戸籍・徴兵の下調べ
 不動産の質入・売買の奥書・加印
 就学の勧誘
 地券台帳・諸帳簿の保存・管守
 などでした。
 一方の「町村ノ理事者」の事務は、各町村の公共事業を統轄することでした。
 戸長は選挙で撰ばれることが原則でした。神奈川県では明治11年(1878)11月に「戸長選挙規則」を布達しました。選挙権は、その町村内に本籍がある満20歳以上の戸主の男子にだけ与えられました。そして、「戸長ハ公選ヲ以テ挙ケ、県令ノ裁可スル処トス」であり、公選制を建前としていましたが、県令がその当選者を裁可する権限を残していました。
 ここに、国家政策の実施者と町村の理事者の両面を持つ、村の長が誕生しました。実際には、明治12年(18793月に、各村々に戸長が置かれました。