村の維新


村の維新

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の頃は、江戸廻り代官松村忠四郎(ちゅうしろう)の支配する鈴木新田と、韮山代官江川慧の支配する残り六か村とに管轄が分
かれていた。また、関東における広域の治安維持のために編成された村の連合である改革組合村(劉せ撚組合)では、
田無宿組ム。四〇か村の中に編成され、江川支配の六か村は、江川支配内のみの村連合である田無村組合にも編成
されていた。
以上が、明治維新を迎、尺る頃の小平のようすである。示平」という地名は、第二章でも後述するとおり・市
制.町村制によって一八八九年に「小平村」が誕生するまでは存在せず、上記七か村のまとまりも、一八八四年
の小川新田外六か村襲・戸長役場の設立によって、はじめて誕生したものである。したがって・天八九年以前
の記述に示平Lを用いるのは正確ではないが、説明の煩雑さを避けるため、本編では、小平市域を指す呼称と
して「小平」を用いることとする。

韮山県と品川県の設置

 小平を支配していた幕府代官は、いち早く新政府に恭順姿勢を示したことから、引き続き関東の地域支配を命じられた(『小平市史』近世編)。韮山代官の江川は、一八六八(慶応四)年三月一三日
に「官軍人馬賄御用掛」に任じられ、同年六月頃より旧幕府直轄領を引き継いだ政府直轄領を管轄した(韮山県)。
鈴木新田を支配していた代官松村も、四月七日には、関東の新政府直轄領の支配を命じられ、六月二〇日には武
蔵知県事に任命される。この際、武蔵知県事は計三人(ほかに桑山郊(元旗本)、山田政則(まさのり 忍藩士))が任命されてお
り、武蔵国の幕府直轄領の中心部を、三人の知県事で支配することになった。松村の支配地域はのちの品川県で
あり、他の二人の支配地域は小菅県と大宮県となった。

 このように明治維新直後は、それまで支配していた代官がそのまま新政府の地方官となったため、地域には劇
的な変化は起こらなかった。韮山県の場合、韮山県が廃止される一八七一(明治四)年まで江川役所による支配が
続くことになる。この江川支配下の韮山県では、地域からの要望を受けた村連合の再編がおこなわれている。一
八六九年に韮山県と品川県との県域の錯綜を解消するため、管轄替えがおこなわれた。この管轄替えにより、こ
れまでの組合村から分離されることになった小川村外五か村、蔵敷村(現東大和市)外五か村の一二か村が、一八
七〇年三月、「小高に相成不都合」との理由から、「脇往還継場(わきおうかんつぎば)にも相掛り居」る小川村を寄場親村にして、小川
村組合を結成したいと願い出た(近現代編史料集⑤ No五)。小川村を中心とする組合結成の動きは近世後期にもあっ
たが、そのときは実現しなかった。韮山県はこの願い
に対し、南秋津村・久米川村・野ロ村・清水村の四か
村を追加して、小川村組合の結成を認めた。ここに、
はじめて小川村組合が発足することになったのである。

 一方松村支配地域(品川県)では、一八六八年八月に
松村が病気願いによって知県事を辞め、後任として佐
賀藩士の古賀一平(こがいっぺい 定雄)が赴任したことから様相は一
変した。品川県は、江戸府内西部の現新宿・中野・練
馬・杉並・渋谷・世田谷・目黒・大田・品川の各区か
ら、武蔵野・三鷹・西東京・府中・国分寺・小平・横
浜・川崎・所沢の各市へと西へ広がり、約四〇〇か
村・七万石の地域の元幕府直轄領からなる。先に触れ
た一八六九年の管轄替えで、小平では野中新田両組と
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自治改進党の結成

 府中駅で演説会が再開された一八八〇(明治一三)年=月は、国会期成同盟の第二回大会
が開催されており、全国的な運動が大きく盛り上がりをみせていたときでもあった。第二
回大会では政党結成が提案され否決されたが、一二月になると、政党結成推進勢力が集まって会合をもち、同盟
とは別に「自由党」結成の検討をはじめた。この会合に武蔵六郡懇親会の仮幹事として活発に活動をはじめてい
た県会議員の内野と吉野も参加している。ここには府中駅の「勧業教育演説会」に演説者として招かれていた嚶鳴社の野村元之助も参加しており、二人の会合への参加は嚶鳴社とのつながりによるものであったといってよい
であろう。この会合は二人にとって大きな刺激となり、北多摩郡における民権結社・自治改進党結成の推進力と
なった。吉野はこのことについて、「自由党の会議」に参加して「我輩惰夫も少しく志を立る」ようになり、「帰
郡後奔走、同志を募りて五十余名を得て自治改進党」を結成したと述べている(「吉野泰三書簡(深沢権八、千葉卓三
郎宛)」)。地域での運動の広がりと盛り上がり、中央での最前線の議論への参加、この二つの相乗効果で、北多摩
郡における民権結社の結成は具体化していったのである。

 自治改進党結成が提案されたのは、一八八一年一月五日に府中駅で開催された北多摩郡懇親会であった。この
提案は参加者一同の賛成で承認され、その場で盟約書が起草された。発会式は一月一五日に府中高安寺において
開かれ、「総則」「社則」「議則」が決定された。「総則」には「自由党」結成の会合で検討された「自由改進党盟
約」の影響がみられる。しかし、「自由改進党盟約」では、その主義を「人民の自由権利を拡張する」こととし、
この主義によって「国政上の改良を謀り、国家の康福を増進」することを目的としてあげているのに対し、「総
則」では、国政や国家については言及せず、「自治の精神を養成し、漸を以自主の権理を拡充」することを主義
としてあげている(「自治改進党総則」)。内野、吉野がかかわりをもった、国会開設運動から政党結成へと向かって
いた中央の運動とは、線を画し、あくまでも「自治の精神を養成」する組織として結成されたのである。衆楽会
があげていた「自治の道」を知ることを発展させたのが「自治の精神を養成」することであり、自治改進党は衆
楽会の延長線上に位置づけることができる。

 このような「自治」を強調する組織としたのは、国政への参加を求める政治意識が北多摩郡全体には浸透して
おらず、北多摩郡全体を組織対象とする結社としては、まずは「自治」を経験するなかで政治意識を高めていく
ことが必要だとの判断があったと考えられる。先に武蔵六郡懇親会の仮幹事は甲州街道沿いの人物が中心で、青
梅街道沿いは内野だけであると指摘したが、自治改進党の党員一四四名の分布をみても、甲州街道沿いに党員が
多く、青梅街道沿いの地域では各村に一から二名、あるいは大区小区制の小区の範囲に一から二名という分布と
なっている。このことは、前者では政治意識を持った有志者が自ら進んで党員となったが、後者では地域の代表
者が党員として組織化された、といった違いがあったことを想定させる。実は自治改進党は、社長となった砂川
源五右衛門が郡長、幹事五人の内三人が郡書記で、郡と一体となった組織であった。

 小平で自治改進党員となったのは、小川村の小川弥次郎、回田新田の
斉藤安在、野中新田与右衛門組の高橋恭寿、糟谷勝三郎の四人である。
大区小区制の時代には、小川新田と回田新田が同じ一小区で、野中新田
与右衛門組は別の九小区であった。一八七八年に郡区町村編制法が施行
されて小区はなくなっていたが、自治改進党の支部割りは小区をもとに
つくられており、小区のつながりは生きていたと考えられる。小平の四
人は、それぞれの小区の代表として党員となったのであろう。p83

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中和会と小平

 自治改進党結成から一か月たった一八八一(明治一四)年二月一五日、小川村の小川寺で懇親会
が開かれた。当日来会した者は六〇名、嚶鳴社の草間時福、東京横浜毎日新聞社の竹内正志が
招かれ演説をおこなった。そして、その場で「同盟仮合議書」が合意され、「中和会」を結成することが決まった。

 中和会結成の中心となったのは、『東京横浜毎日新聞』(二月一八日)、「杢翁記録」によれば、内野杢左衛門、宮鍋
庄兵衛(高木村、現東大和市)、川鍋八郎兵衛(芋窪村、現東大和市)、小川弥次郎(小川村)、斉藤忠輔(回田新田)、小嶋
龍叔(野口村、現東村山市)、渡辺武四郎(中藤村、現武蔵村山市)、小(川)鍋正義らである。この八名のうち内野、宮鍋、
小川、斉藤、小嶋の五名が自治改進党員であった。

 中和会の結成については、その経緯を示す史料が残されており、すでに『武蔵村山市史』で詳しく分析されて
いる。それによると、「同盟仮合議書」作成に至るまでに三つの草案があり、内容の検討がおこなわれていたこ
とがわかる。その中で一番古いと考えられている草案には、その主義は「人民の自由を拡充し、権利を伸張せん
とする」ことであると書かれている。国政、国家については触れていないが、「人民の自由権利を拡張する」こ
とを主義とした「自由党」結成の会合で検討された「自由改進党盟約」に近い。これらの草案が残されていたの
が内野家であることから、草案の作成では内野杢左衛門がリーダーシップをとっていたと思われる。内野は「中
和会」を、「自治」を重視した自治改進党よりも一歩進んだ、「自由党」への橋渡しとなる組織として構想してい
たのではないか。しかし、会の主義は「正理公道に基き、民人の幸福を増益せんとする」という案も検討された
のちに、「天賦の自由を伸張し、人生の福祉を増益する」ことに変更された。「権利」の伸張を削ることで、政治
性を弱めたかたちである。他の中心メンバーとの議論のなかで、政治性を出したかたちでの結社の結成は難しい
と判断されたと考えられる。この難しさは、第二回中和会で早くも露呈されることとなった.、

 「同盟仮合議書」では毎月一回、演説会か討論会を開くとされ、次回の場所はその前の会において、その都度
決めることとされた。先に培養商会に触れた際に指摘したように、中和会の組織範囲となった小平、東村山、東
大和、武蔵村山の青梅街道西部地域は、通船禁止以降中心地を定められない状態であった。それでも第一回に引
き続き、第二回の場所も小川村とされており、まだこの時期には、小川村が一つの有力な中心地と考えられてい
たと思われる。しかし、三月一九日開催の第二回中和会に参加するために内野が小川村に赴くと、「会員単に九
右衛門のみ」であったという。そこで、「有志者五六名を募り」、あらためて同じ月の二七日に第三回演説会を中
藤村真福寺で開くことにした(「発起同盟議決書」)。その後、中和会の活動は内野の地盤である蔵敷村(現東大和市)、
中藤村(現武蔵村山市)の地域に移り、小川村ではおこなわれなくなっていく。小川村は政治的活動において、地
域の中心地となる可能性を失ったのである。

 内野、吉野が参加した「自由党」結成の会合は、結局、実を結ばなかったが、一八八一年一〇月に開催された
国会期成同盟第三回大会で再び結成が提起され、同月二九日、自由党が成立することになった。北多摩郡では結
党当初から中村克昌(上石原村、現調布市)が党員となり、吉野泰三、中村重右衛門(上石原村)らも早くから党員と
して活動していたようであるが、本格的に党勢拡大がおこなわれたのは一八八二年に入ってからであった。一月
一〇日の原町田(現町田市)の懇親会にやってきた自由党幹事の迫田盛文、大石正己が一二日に府中駅に赴き、砂
川源五右衛門郡長、比留間雄亮郡書記らを勧誘し、入党を承諾させる。砂川が自治改進党の社長であったことは
先に触れたが、比留間も自治改進党の幹事であった。自由党は、郡と自治改進党が一体となった組織を利用して、
党勢の浸透をはかろうとしたのである。しかし、自治改進党とは異なり、自由党員は北多摩郡全体に広がること
はなかった。青梅街道沿いでは、小川村に代わって中和会の中心となった蔵敷村、奈良橋村、芋窪村に党員が生
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まれたが、小平を含む他地域に自由党に入る者はいなかった。「自治」を強調した自治改進党には入党しても、
政治性を前面に出した自由党に対しては拒否反応を示したのである。

民権運動に対する対応の違いとその背景

 小平は、一八八四(明治一七)年に連合戸長役場ができて、現在の市域が一つのまとまり
となるまでは、大まかにいえば、小川村、小川新田、回田新田からなる「小川地域」(一
小区の区域)と、鈴木新田、大沼田新田、野中新田与右衛門組、野中新田善左衛門組からなる「野中地域」(九小区
の区域)に分かれていた。この「地域」に注目して民権運動への対応を整理すると、自治改進党に代表者を出した
が自由党員になる者はいなかった、という点で両地域は共通しているが、小川地域は自由党員を出した蔵敷村な
どの地域とともに中和会を結成して一度は民権運動に乗り出そうとしたのに対し、野中地域は民権運動にか
かわる動きはみられなかった、という点で違いがあることがわかる。この違いの背景にあるものは何なのであろ
うか。

 すでに第一節で詳しくみてきたが、小川地域と野中地域の区切りは、一八六九年四月の韮山県と品川県との県
域の再編によって生まれたものである。この再編で小川地域が韮山県、野中地域が品川県となった。韮山県では
翌一八七〇年三月に小川村組合が設置されたが、そこには小川地域の他に東大和市、東村山市にある村々も含ま
れた。中和会が活動の場とした範囲は、この小川村組合でのつながりが元となっていたと考えてよいだろう。一
方、品川県に属することになった野中地域では、県域再編がおこなわれた一八六九年の一一月に、地域を揺るが
した大事件である御門訴事件が起こっていた。このことも第一節で触れたので、詳しくはそちらを参照してほし
い。この闘いでは多くの犠牲者が生まれ、新政府の厳しい姿勢を身にしみて知ることとなった。さらに地価修正
反対運動でも、神奈川県の強い姿勢の前に挫折をしいられている。野中地域四か村のみでなく、田無町を含めた
新田地域全域で、民権運動期には目立った活動がみられない。それは、御門訴事件と地価修正反対運動の体験で、
政治的な活動への警戒心・挫折感をもつようになったからであると考えられる。

大日本農会の設立と斉藤忠輔

 それでは、小川地域が一度は中和会の中心地となりながら、その後、政治的な活動から離れ
てしまうのは、なぜなのであろうか。それは、この地域が野中地域とともに、「改良進歩」
に力を入れるようになっていたからだと考えられる。

 先に、大沼田新田の當麻弥左衛門が茶樹を導入して「改良進歩」の努力を重ね、茶業を村内へ、近村へと広げ
ていったことについて触れた。一八七五(明治八)年には、回田新田の浅見四郎左衛門も茶業を開始し、一八七九
年には製茶共進会に出品するまでになっていた。大沼田新田は野中地域であり、回田新田は小川地域である。野
中地域の「改良進歩」の努力が、小川地域にも広がっていたのである。この浅見の史料は、自治改進党員となり、
中和会結成の中心ともなった回田新田の斉藤忠輔の子孫の家に残されていたのであるが、その斉藤忠輔が製茶共
進会と同じ一八七九年に結成された培養商会の委員年行事となり、流通面での「改良」に乗り出していたことに
ついても先に触れた。「改良進歩」の動きは、さまざまな面に広がり
はじめていた。

 一八八一年四月、農商務省が設置され、大日本農会が結成された。
大日本農会は会則で、会の目的を「汎く農事の経験知識を交換して専
ら該業の改良進歩を図る」こととし、「改良進歩」の旗を高く掲げた
(「大日本農会会則」)。この「改良進歩」の宣言は、それまでの欧米農
法・農学の移植による大農経営の拡大という政府の方針を一八〇度転
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とられたが、小平村では基本的に納税額を基準に戸数割を算定した。たとえば一九〇七年は、地租、所得税、営
業税(以上、国税)、府税営業税(商業税第七類を除く)、府税雑種税中料理店理髪人税、以上の合計納税額を二七の等
級に区分して傾斜賦課された(近現代編史料集①五九頁)。その後、等級区分はたびたび改訂され、一九一〇年に三
〇等級に、一九一四年に五〇等級となり、細分化されるとともに高額納税者への賦課額は次第に増加していった。

2壮士勢力の台頭

 キリスト教の小平への広がりと政治活動

 北多摩郡最初のキリスト教の伝道は一八七三(明治六)年一〇月のことで、府中分梅出身
で横浜において受洗し、日本基督公会の長老となっていた小川儀緩ほか一名が、比留間
七重郎家と小川来助家でおこなった説教であった。このときの伝導は単発的に終わり、キリスト教が定着するこ
とはなかったが、一八八三年に日本聖公会による伝道が府中駅でおこなわれ、翌年から定期的な出張伝道がおこ
なわれるようになったことをきっかけに、府中駅を中心とした周辺地域にキリスト教が広がることとなった。

 一八八五年、宣教師ウッドマンが府中駅に英語学校とともに「府中講義所」を開設、本格的な伝道に乗り出し
た。その結果、同年一二月に北多摩郡における初の受洗者が生まれた。西府村(現府中市)二名、立川村一名、居
住地不明一名の四名のキリスト教徒である。一八八六年になると「小川講義所」も開設され、同年三月には同所
で、小野房次郎、町田久五郎、藤野太十郎、内山初五郎、横瀬通理の五名が受洗した。小野は小川新田の人物、
町田、藤野、内山は小川村の人物である。横瀬は小学校教員として小川新田へ移り住んだ士族で、講義所は彼の
家にあったといわれている。小川講義所では、さらに五月に六名が、翌一八八七年二月には七名が受洗したが、
内六名は横瀬姓で、横瀬通理の親族だと思われる。小平でのキリスト教拡大には、外来の小学校教員であった横
瀬の果たした役割が大きかったといってよいだろう。図2ー1は、一八九〇年までの村ごとの受洗者数の累計を
グラフ化したものである。小平が北多摩郡におけるキリスト教の拠点となっていたことがわかる(西山茂萌治後
半期における府中聖馬可教会の動向」)。

 小平のキリスト教徒で注目しておきたいのが、明治二〇年代に政治活動を
積極的におこなった人物が多かったことである。最初に受洗した五人のうち、
小野と町田はのちに「正義派十有志」(『一二多摩政戦史料』)と呼ばれるようになっ
た北多摩郡正義派の「壮士」で、一八八九年に受洗した野中新田の高橋忠輔
も「正義派十有志」の一人であった。小平は前章でみたように、小川地域で
一時、民権運動にかかわる動きがみられたものの、その後は政治よりも経済
に力を入れ、政治活動からは距離を置いていた。小野はその時期に設立され
た玉川銀行の発起人の一人となり、その実務を担った人物であった。しかし、
明治二〇年代になると、小平は北多摩郡民権派のリーダーであった三鷹村の
吉野泰三とのつながりを強め、北多摩郡正義派が結成されると、その拠点の
一つとなっていく。その小平正義派の中心にいたのが小野らキリスト教徒で
あった。

 キリスト教徒となった町田は、受洗した翌月の一八八六年四月、所用で東
京に行く際に、本宿村(現府中市)の民権家松村弁治郎から、愛知より上京し
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ていた民権家荒川太郎に会って、「当分出京出来ざる」旨の伝言を伝えてくれるよう頼まれた。町田はそのこと
を荒川に伝えたが、結局、荒川を松村宅まで案内することになった。しかし、松村の私宅は取り込み中で話がで
きず、荒川と松村は「相携へて町田の同村某家」に行ったが、そこでも話せずに一泊することになった。翌日、
「甲府との中間山の中」で荒川は、やっと「私か目的とする処」を松村に話すことができた。ここで話されたこ
とは、最後の激化事件として知られる「静岡事件」のことであった。静岡事件は武装蜂起を企てた事件であるが、
同年六月に一斉検挙がおこなわれ、未遂に終わっている。荒川は取り調べのなかで町田について問われ、松村の
「懇意なるものなり」と答え、事件について町田にも相談したかとの問いには、「是には謀りません」と応じた
(「松村弁治郎の静岡事件関与に関する「荒川太郎参考調書」」「静岡事件に関する「松村弁治郎第二回調書」」)。

 町田が静岡事件にどの程度のかかわりをもっていたかは確認できない。しかし、すでに当時、松村は民権家と
して知られており、その松村に懇意で協力していたということは、町田が意識的に政治にかかわるようになって
いたことを示していよう。この政治活動の開始と、キリスト教との接触のどちらが先なのかは明らかにできない
が、キリスト教の信仰という内面的世界の深化と、村を越えた政治活動への参加という外面的世界の広がりが、
何らかの共鳴性をもって同時並行的に進んでいたことは興味深いことである。

県会騒動と小平

 静岡事件が発覚した一八八六(明治一九)年は、いったん挫折した民権運動が「大同団結運動」
として復活しはじめた年でもあった。同年一〇月、浅草井生村楼(いぶむらろう)にて開かれた全国有志懇親
会で、星亨(とおる)が「小異を捨てて大同を旨とすべし」と呼びかけ、国会開設をにらんだ民権勢力再結集の動きがはじ
まる。翌一八八七年の夏になると、井上馨(かおる)外相の外国人判事を任用する条約改正案が表面化し、「地租軽減」「言
論集会の自由」に「外交策の刷新」を加えた三大事件建白運動が大きく盛り上がった。政府内でも谷干城(たてき)農商務
大臣や法律顧問のボアソナードらが強く条約改正案に反対した。同年一〇月一日の吉野泰三宛松村弁治郎書簡に
よると、松村は小野房次郎から「谷干城之意見書」の抜粋録を入手し、小野、町田の二人から「中央政府へ請願
とか建白とか云ふて上京せる有志者云々」の情報を聞いている。一一月一五日には、浅草鴎遊館で全国有志懇親
会が開かれ、神奈川県からは約三〇名ほどが出席したが、そのなかに小平の小野、町田、清水浩平(小川新田)の
名をみることができる(『自由党史』)。小野、町田らは三大事件建白運動の盛り上がりのなかで、活発に政治活動
に参加するようになったのである。

 全国的な建白運動が盛り上がりをみせていた頃、神奈川県では県会を舞台にした騒動が起こっていた。それは、
一〇月二七日におこなわれた神奈川県有志懇親会に県議の出席者が少なかったことに端を発するもので、「軟弱議
員」辞職を求める壮士たちが引き起こした騒動であった。「壮士」とは生業を離れ、自ら
の危険を顧みずに国事に奔走する青年活動家のことである。大同団結運動後、民権勢力再
結集の実働部隊として力を強め、その圧力でみずからの主張を通そうとするようになって
いた。小野、町田らもそのような壮士勢力の一員であった。辞職の勧告は、一二月一〇日
に北多摩郡出身の県議内野杢左衛門に対して出された勧告からはじまった。勧告は、同年
五月二三日に武蔵村山、東大和、東村山、小平、砂川(立川北部)地域を襲った雹害に対し
て、内野の斡旋で下付された「雹災救助金」の大半が「消失」してしまったことの責任を
問うものであった(「内野杢左衛門に対する県会議員辞職勧告書」)。内野はこの騒動のなかで、壮
士らに殴打され、そのことをきっかけに県会解散時に県議を退いてしまう。表2ー4はこ
の勧告に署名した一一名である。小野、町田、清水の他、並木喬平(小川新田)、中島勘助
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(野中新田)、松屋広徳(小川村)が小平の人物で、ここから壮士として活動する者が小平で増えていたことがわかる。

 この辞職勧告については小野から松村に書簡で伝達され、その内容を松村は吉野に書簡で伝えた。そのなかで
辞職勧告に署名した一一名について、「中重・町田・並木三君始め内藤の連中並びに各地有力者」と書いている(「吉
野泰三宛松村弁治郎書簡」一二月一九日)。「中重」は調布(上石原村)の中村重右衛門のことで、彼は県会解散を受けて
一八八八年二月におこなわれた県議選で内野に代わって当選し、同じ調布(上石原村)出身の県議中村克昌ととも
に、北多摩郡の壮士勢力のリーダーとなる人物である。その中村とともに町田、並木が「三君」とされていると
ころから、小平では小野、町田とともに並木も壮士勢力の一員として重要な役割を果たすようになっていたこと
がわかる。一八八八年一月二一日に、前郡長の砂川源五右衛門と現郡長の渡辺菅吾を招いた新年宴会が計画され
たが、警察の許可が思うように下りず、結局、中止となった。この会の実務を担当し、警察との交渉にあたって
いたのが小野と並木であった(「府中での新年宴会開催についての府中警察出頭の景況を伝える並木喬平・小野房次郎の鎌田訥郎宛書簡」、「府中での新年宴会中止に関する並木喬平・小野房次郎の鎌田訥郎宛書簡」)。

神奈川県通信所の設立と小川諸氏

 一八八八(明治二一)年四月頃から、神奈川県通信所設立の準備がはじまった。通信所設立
の直接の目的は、大阪事件で無罪釈放された窪田久米を通信委員とし、その生活を保障す
ることにあったが、旧民権家間の連絡事務を窪田ら壮士が担当することで、壮士勢力が運動の主導権を握ること
も意図されていた。通信所は五月に設立趣意書をまとめ、七月一日から事務取り扱いを開始した。しかし、順調
な滑り出しというわけにはいかなかった。
七月八日、原町田吉田屋にて通信所事務について協議する懇親会が開かれた。参会者は西南北多摩郡、愛甲郡、

高座郡、淘綾郡(ゆるぎ)から集まった「四一名計り」で、窪田とともに通信委員となった森久保作蔵から、通信所につい
ての説明があった。小平からは小野、町田が参加し、発起人の一人であった鎌田訥郎(奈良橋村、現東大和市)宛の
書簡で、「皆賛成の様」であったと報告している(「神奈川県通信所設立に関する町田久五郎小野房次郎の鎌田訥郎宛書簡」)。
しかし、維持費の出金方法をめぐって不信感が生まれていた。中村重右衛門が並木に、維持費は郡でまとめて三
円五〇銭と話していたが、懇親会では「名々個々の出金」と説明されたからである。また、七月一七日の『公論
新報』広告に「通信所賛成委員」としてnna載された者のなかで、「中川・吉野・中溝・青木.福井の諸子」が新
聞紙上へ取消の広告を出すという問題もおきた(「公論新報」誌上の通信所関係の広告についての町田久五郎の鎌田訥郎宛
書簡」)。
取消広告を出した人物は、神奈川県の各地を代表する民権派県議であり、県会騒動以来、壮士との対立を深め
ていた面々である。通信所側が彼らのはっきりとした意志を確認しない
まま、当然賛成するだろうとの考えから、「賛成委員」として記載して
しまったと思われる。このような通信所のやり方に対し、小野は吉野へ
の書簡(七月二四日)のなかで「兄弟相同様なる挙動のみ働き居る人達に
は実に閉口仕候」との心情を吐露している。小野らも壮士の一員として
活動していたが、通信所設立をめぐる中村、鎌田らの、手続きを軽視し
た家族内のような甘えのあるやり方に、違和感をもつようになったので
ある。
結局、通信所維持費については、北多摩郡有力者中よりとして五円を
出すことでまとまった。このことについて、中村重右衛門は鎌田宛書簡

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第二節北多摩政界の再編と「改良進歩」の組織化
1北多摩郡正義派の結成

神奈川県倶楽部の結成

 北多摩郡農工講話会の発会式がおこなわれた一八八八(明治二一)九月から三か月がたった一二
月一〇日、通信所の常議員や「通信所賛成議員」らが集まり協議会を開いている。そこでは通信
所の性格を転換して、新たに「神奈川県倶楽部」を結成することが話し合われた。倶楽部は壮士である通信委員
か実権を握る組織ではなく、地域を代表する常議員に権限を与えており、幅広い勢力の結集を目指した組織であっ
た。実業者との結びつきを強めていた吉野泰三らが、壮士勢力を抑えるべく巻き返しをはかったといってよいで
めろう。この流れのなかで、元神奈川県令中島信行の発意による神奈川県懇親会開催が計画された。吉野は中島
の意を受け、北多摩郡の発起人を依頼する役割を担当し、壮士勢力のリーダーであった中村克昌、中村重右衛門
にも発起人受諾の承認をとった。しかし、まもなく両人から承諾取消の通知が届く。通信所の窪田らが、発起人
に改進党員がいることを取り上げて、発起人返上を働きかけたからである。結局、懇親会は開催できず、神奈川
県倶楽部の結成も足踏みすることになった。

 一八八九年二月一一日、大日本帝国憲法が発布され、同時に衆議院議員選挙法も公布された。間近に追った国
会開設をにらんで、三月二一日には民権派の有志大懇親会が浅草鴎遊館において開催される。そこでは東京倶楽
部の績成、関東会への加入、「大同派」への連合が決定された。この懇親会には神奈川県からも三二名の参加が
あり、内、一○名が北多摩郡、その内六名が小平であった。六名は小野房次郎、町田久五郎、並木喬平、清水浩平、
野中善平、飯田潤輔である(「東京倶楽部設立の模様を報じる記事」)。しかし、翌二二日、「大同派」の中心にいた後藤
象二郎が逓信大臣として入閣したことから「大同派」は分裂する。神奈川県では四月二〇日に八王子公徳館にて
有志会を開き、「大同派」への不参加を決定した。北多摩郡からは吉野、両中村とともに町田が参加している(「鎌
田訥郎宛吉野泰三書簡」五月六日)。そして、大井憲太郎らが結成した大同協和会に参加した。このことが契機になっ
て、神奈川県倶楽部の組織化が進展、六月二五日には常議員会が開催されて活動を開始した(「常議員会決定事項」)。
「北多摩郡の神奈川県倶楽部会員名覚書」によれば、小平村の会員数は一四名で、北多摩郡で一番多い(図2ー
7)。小川諸氏(第一節2)の活動が、北多摩郡における小平村の政治的地位を押し上げたのである。小平村のなか
で、これまでの政治活動で名前があがっておらず、ここではじめて登場す
るのは、小川村の小川良助、師岡弥一郎、内山勝太郎と、大沼田新田の當
麻朝正、回田新田の斉藤忠輔の四名である。注目したいのは「改良進歩」
のリーダーであった斉藤が参加していることである。また、東村山村の市
川幸吉も倶楽部員となっている。神奈川県倶楽部は、政治よりも経済に力
を入れていた実業者のグループをも巻き込んだ幅広い組織として結成され
たのである。

北多摩郡倶楽部の設立

 神奈川県倶楽部の結成が目指されていた時期に並行して進
んでいたのが、「北多摩郡倶楽部」の設立準備である。こ
れを推進したのが小川諸氏であった。一八八九(明治二二)年二月二三日付
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の宛先不明吉野書簡によると、「小川村の有志三名」が中村重右衛門宅を
訪れて北多摩郡倶楽部の話をしたが、中村は「位置等の事もこれ有、余り
賛成ならぬ」と述べたという。北多摩郡倶楽部は小平村に置く計画であっ
たが、中村はその位置を問題として反対したのである。北多摩郡の運動の
拠点が小平村に置かれることで、主導権が小川諸氏に奪われてしまうと警
戒心を抱いたのであろう。しかし、北多摩郡倶楽部の設立準備は進められ、
寄付金集めもおこなわれた。五月二六日、府中中屋で懇親会がおこなわれ、
北多摩郡倶楽部の件が話し合われた。ここで小平村に北多摩郡倶楽部を設
置することに対して反対意見が出されたようで、「其実際は異ならさるにせよ、表面丈は小平村会堂の如き姿」
となることになった(近現代編史料集⑤No三四)。七月一五日、小野は府中町にて両中村と会い、北多摩郡倶楽部に
ついて相談をもちかけている。両中村との対立が決定的になることを避け、協調を保とうとしたのであろう。両
中村は「兎に角警察へ届け丈はして置け」とアドバイスした(近現代編史料集⑤No三五)。北多摩郡倶楽部が開設さ
れたのは八月一日のことである。場所は「小平村野中字上水通」であった(図218、近現代編史料集⑤No三六)。
小川地域ではなく野中新田に開設したのは、政治活動にかかわりはじめた野中地域を育てるという意味があった
のではないか。あるいは、小川諸氏がキリスト教徒中心であったことから、あえてキリスト教の「小川講義所」
があった小川地域を避けたとも考えられる。吉野から北多摩郡倶楽部に届いた書簡に対し、高橋忠輔が「御書面
拝見、委細承知」「本日は小生ノ人にて誰も居らず候」と記した返書を、みずからの署名に「倶楽部にて」と添
書して出している(一○月五日)。新たに運動に参加するようになった野中新田の高橋が、北多摩郡倶楽部の事務
局としての役割を果たしていたと考えられる。

北多摩郡正義派の結成と小平

 北多摩郡倶楽部が開設されてまもなく、北多摩政界は大きく揺れ動くこととなった。開設直
前の七月下旬に中村克昌が突然・県議を辞職し・北多摩政界の再編に乗り出したからである・
中村が目指したのは、吉野や壮士の一グループであった小川諸氏、市川らの実業者グループと手を切って、壮士
勢力を結集した独自のグループ(以後「中克派」と呼ぶ)を形成し、北多摩政界の主導権を握ることであった。中村
がそのような思い切った行動に出たのは、神奈川県倶楽部が動き出し、実業者グループを巻き込んだ吉野らの勢
力が壮士勢力の押さえ込みをはかろうとしたこと、北多摩郡倶楽部が設置されることになり、北多摩郡の壮士勢
力内でも小川諸氏グループに主導権を奪われかねない状況が生まれていたことに危機感を抱き、彼等と離れて政
治的純化を果たしたうえで、勢力拡大をはかることが必要だと判断したからだと考えられる。中村は、八月五日、
府中中屋において集会を開き、県議の後任候補を鎌田訥郎(高木組合村、現東大和市)と決定する。鎌田の地元であ
る東大和、武蔵村山の地域を自派の地盤とし、勢力拡大の拠点としようとしたのである。小野、町田、市川は、
「中村の無断辞職を不平とし」、この集会には参加しなかった(『比留間家日記』八月五日)。吉野は参加したが、鎌田
決定をくつがえすことはできなかった。九月二日におこなわれた県議補欠選挙で鎌田は当選、中村のねらいは順
調に進むかにみえた。しかし、これに吉野は反撃を加えていく。

 当時、北多摩政界には改進党との結びつきを強めていたグループ(以後「改進派」と呼ぶ)もあった。中村半左衛
門を中心とする大神地域(大神組ムロ村、現昭島市)、初代府中町長となった比留間雄亮を中心とする府中地域のグルー
プである。注意しておきたいのは、大神地域は大日本農会の地盤であり、中村も一八八六(明治一九)年五月に会
員となっていたことである。比留間も一八八九年一〇月には会員となっている。改進派は実業を重視したグルー

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プであったということができる。それゆえ、彼等は実業者グルー
プも組織化していた神奈川県倶楽部に参加していた。このよう
な状況下に中克派が生まれ、吉野らと対立するようになれば、
北多摩政界は吉野派、中克派、改進派に三分割されることにな
り、吉野は北多摩郡で少数派に転落し、主導権を失うことにな
る。そればかりか、南多摩郡と西多摩郡は、中村克昌らと結ぶ
壮士勢力が多数を占めていたため、吉野は三多摩全体でも少数
派となってしまう。間近に迫った総選挙の選挙区は三多摩全体
が一つの区であったため、それは吉野の総選挙での敗北を意味
していた。吉野はこの危機から脱出策を、改進派との連合によ
る北多摩郡内多数派の形成に求めた。九月=日、吉野は比留間に書簡を発し、改進党への入党を思いとどまら
せると共に・「中立の中正派」の結成を提案する。そして、翌三日、士。野は市川とともに県議を辞職、後任候
補に改進派を推すことにした。一七日、府中中屋にて吉野らと改進派との集会が、一八名の出席を得て開かれた。
この場で後任候補を中村半左衛門、比留間の二人とすること、「北多摩郡中正派」を組織することが決定された
(『比留間家日記』九月=日から一七日)。「中正派」はまもなく「正義派」と名称を変え、活動を開始した。
北多摩郡正義派は吉野派と改進派との連合組織であるが、この二派に共通するものは何だったのか。党派名に
つけられた歪垂という言葉には、二つの意味が込められていたと考えられる。;は反壮士であり、も、2
つは司改良進歩レの活動--実業の重視である。吉野は暴力を用いてでも主張をとおそうとするようになっていた
壮士の活動を「邪」とし、その壮士を排撃することを「正義」としたが、壮士への反感は改進派も共有していた。
「改良進歩」の活動については、茶業組合に対する姿勢に、壮士らとの違いをみることができる。すでにみたよ
うに、壮士は組合による取り締まりなどを「干渉」として排除しようとしたが、正義派に合流した二派は、組合
による取り締まりを「改良進歩」の活動として推進していた実業者の側に立っていた。
正義派結成の集会には、小平村からは小野、町田の二名が参加した。小野、町田ら北多摩郡倶楽部を設立した
小平村の壮士らは、正義派の中心部隊として活躍するようになる。正義派の会員数自体も、図2f9に見るよう
に、小平村が一番多かった。このように小平村が正義派最大の拠点となったのは、小川諸氏らと吉野とのつなが
りが強まっていたという理由のほかに、小平村が「改良進歩」の活動に熱心な地域で、正義派の「改良進歩」重
視を歓迎する土地柄だったという要因も大きい。小川諸氏の一人であった小野も、壮士として活躍する以前は、
玉川銀行で中心的役割を担っていた実業者で、斉藤忠輔が大日本農会に入会して以降、小平村には大日本農会の
会員が増えていた。
吉野、市川の県議辞職を受けた補欠選挙は一〇月二五日に実施された。正義派の比留間雄亮、中村半左衛門は、
中克派の候補をおさえ勝利した。正義派は順調な滑り出しをみせた。

2東京府編入と川越鉄道

通船から甲武鉄道へ

 北多摩郡正義派の結成により、北多摩郡に「改良進歩」を重視する政治勢力が生まれた一八八九
(明治二二)年という年は、甲武鉄道(現JR中央線)が八王子まで開通し、そのことによる東京との