村山乗合自動車

村山乗合自動車
 東大和に乗り合いバスが走ったのはいつか? そのルートは?
 についてはいろいろ議論があります。最も濃密なのが、村山貯水池の建設が進む大正8年(1919)~大正10年(1921)の頃の話です。
 
 『東大和のよもやま話』はこう語ります。

「大正八年頃に、何人かの共同出資で村山通りを芋窪から東村山市まで、後に横田まで区間をのばし村山乗合バスが走っていました。利用者が少く、いつも運転手と助手の二人のことが多く「しじゅう二人のりバス」と言われていました。経営不振で経営者が変って芋窪バスになったのですが、これも何年かの後に西武に売却され、次第に今の姿へと新しくなっていきます。」(p91~92)

 共同出資を呼びかけた人が東大和市、当時の芋窪村の人でした。武蔵村山市に貴重な資料が残されています。

  村山乗合自動車目論見書

 十二人乗、十八馬力ノ自動車一輌ヲ金三千円ニテ新調シ、此車一輌ニテ向二ケ年半ヲ使用シ得ラルルモノトシ
テ計算スレバ、左記ノ通り毎一日ノ実費ハ十八円九十銭トナレリ
 而シテ経営後ハ毎期決算毎ニ損失金ハ各自分担補充(かくじ、ぶんたん、ほじゅう)シ収益ハ配当スルモノトス
而(しか)シテ目下ノ状況ニテハ一日平均十八九円ノ乗車賃ヲ得ルハ、或ハ不可能ノ事ニテ多ク見積ルモ十四五円ヲ出テ
サルベク、日々四五円宛ノ欠損ヲ見ルナランモ、之レ所謂(いわゆる)目先ノ事ニテ此処一両年間ヲ犠牲ニシ、漸次貯水池完
成ニ近クニ及ヒテハ、裕ニ(ゆうに)一日三四十円ノ賃銭ヲ得ルハ難カラサルベク、必スヤ三四年ニシテ従来ノ欠損ヲ補
ヒ、一転利益ノ配当ヲナシ得ラルベキモノト信ス以上ノ見地ヨリ、此際有志ニテ経営スル事トシ、茲ニ(ここに)事
業資金ヲ三千五百円ト定メ(自動車購入金三千円運転資金五百円)内金二千円ヲ借入金二俟チ(まち)、他ノ一千五百円
ヲ賛成同士ニテ拠出シ遂行セントス
而シテ経営後ハ毎期決算毎ニ損失金ハ各自分担補充シ収益ハ配当スルモノトス(後略)


当分ノ内ハ単ニ共同事業トシテ経営シ、追テ十分ノ収益
アル時季ニ至リ協議ノ上会社組織ニ変更セントス
村山乗合自動車試験運転経過報告
収入ノ部
金三百八十円    三十八人ヨリ一人十円宛寄付
金四十円      二人ヨリ一人二十円宛寄付
金四十五円     九人ヨリ一人五円宛寄付
金百七十六円五銭  八月一日ヨリ三十一日迄ノ乗車賃金
  計金六百四十一円五銭
   支出ノ部(八月一日ヨリ三十一日迄)
金百六十円      ガスリン十箱代
金二十六円       モビール二缶代
金二円        ベンチ二個代
金一円三十五銭    力ーバイト及バケット一個代
金四十三円六銭    車掌負傷治療代及入費
    計金四百七十一円四十一銭
外二
金百六十四円七十八銭  創業諸雑費
右之通ニ候也
                 (中央指田和明家)



村山貯水池の工事完了と共に観光地化してを当てにしての 



大正8年(1919)といい、資料的には大正9年(1920)が残ります。


 大正10年(1921)です。狭山丘陵南麓の横田~東村山間にバスを走らせようとする計画が持ち上がりました。
 当時の芋窪村の尾又高次郎、小槫惣八氏の計画によるものです。明確な資料がない中で

 81日頃、芋窪村尾又高次郎、小槫惣八が「村山乗合自動車」を起こして、試運転開始。
  尾又高次郎等が周辺地域の人々に出資勧誘。 よもやまばなし「乗り合バス」はこのことか?
915日、村山乗合自動車発起につき賛同の願い 『武蔵村山市史下』p301


40乗合バス 乗り合いバス

 昭和の初期に武蔵村山市の現在の埼玉銀行前から東村山駅まで定期バスが運転されていました。お客は朝と夕方位で先生や学生、役場の人が東京へ出る時などが主で、日中は買物客がたまに乗りました。

 芋窪バスといわれ、お客は乗る時か降りる時に行先を言って運転手にお金を払います。全ヨースで三十銭、後に四十銭になり、一日八往復位でした。動き出すとお客はしっかりと窓ぎわにつかまります。道は砂利道で雨が降れば大きな穴があきます。凸凹道をよけながらの運転で、中のお客はおどりをおどるようでした。

 車はT型フォードの箱型で座席は両側にあり、十五人乗り位で車体は青色に白線が一本鉢巻に入っていました。鹿島さまの前に車庫があり、一番大変なことは冬のエンジンかけでした。クランクで手に豆が出来るほど回さないとかからず、やり方がまずいと手をたたかれて骨を折ることもあります。

 停留所も幾つかありましたが、手を上げるとどこでも止ってくれます。花見時になると臨時に貯水池に車を出しました。定期バスが終ってから行くのですが、他にあまり乗り物がなかったのでこの時ばかりは鈴なりのお客でした。

 芋窪バスが運行する前は、貯水池の工事が終って、大正八年頃に、何人かの共同出資で村山通りを芋窪から東村山市まで、後に横田まで区間をのばし村山乗合バスが走っていました。利用者が少く、いつも運転手と助手の二人のことが多く「しじゅう二人のりバス」と言われていました。経営不振で経営者が変って芋窪バスになったのですが、これも何年かの後に西武に売却され、次第に今の姿へと新しくなっていきます。(p91~92)