東京府北多摩郡地誌
内野吉次郎編纂
渡邊壽彦, 1894.5
内野吉次郎 蔵敷597番地
明治27年5月12日印刷
北多摩郡教育会 富沢蔵書
在村文化と近代学校教育 多田仁一 文芸社 p55
石井以豆美 神官、手習塾師匠、小楨学舎校長(訓導)
内野吉次郎 蔵敷 自治改進党員、新聞購読社
大和町史
p368 蔵敷村新聞購読社
p374 自治改進党結成
明治42年(1909)
◎10月15日、蔵敷村・内野吉次郎 地蔵尊造立
富沢忠右衛門 日野宿組合大惣代 武州多摩郡連光寺村名主 文芸社 p195
北多摩郡教育会についての記事
付:多摩の図書館のあゆみ
小平市立図書館
*トピックス
ここまで小平市立図書館の30年のあゆみを振り返ってきました。では、多摩地区における図書館の歴史はどのような歩みをたどったのでしょうか。このページでは多摩地区における図書館の発展をご紹介します。
なお、以下の文章は現小平市中央図書館長蛭田廣一が執筆し、東京市町村自治調査会刊『多摩百年のあゆみ』に掲載された原稿をそのまま転載したものです。数字・情報は執筆時のものとなっておりますのであらかじめご了承ください。
*開かれゆく図書館と市民
戦後の民主主義の確立は市民が社会体制や生活習慣から解放されて、個人の幸福と自由と個性的な生き方を可能にしたのではないでしょうか。それは社会や全体を優先する価値観から個々の人の個性 心の豊かさを尊重する価値観への転換を意味し、一人ひとりが自分の価値観を持ち、心の豊かさを追求するための学習環境の整備と文化的な価値観が必要とされる時代の到来を意味しています。このような時代の要請の中で、多摩には公民館を始めとしたさまざまな文化活動が展開されますが、ここでは個人学習と情報収集の場として市民生活に欠かせない機関に成熟してきた図書館の設立過程について振り返ってみることにします。
図書館の発足
多摩の図書館史は自由民権運動とともに始まったといえます。それは第一章1ですでに述べたように自由民権運動の発端が読書会や学習会を基盤とした学習結社だったことの当然の結果であり、新しい知識を吸収し自由な時代を作るためには図書館機能が不可欠だったということです。多摩には明治11年ころから学習結杜が作られ、町田の融貫杜や五日市の学芸講談会に一種の会員制図書館の存在が確認され、図書館活動の萌芽を見ることができます。融貫杜の規則には「本社共有ノ書籍新聞紙ヲ無見料ニシテ閲読スルコトヲ得」と記されています(『利光鶴松翁手記』昭和32年)。しかし、このような会員制図書館は自由民権運動の衰退とともに消えて行き、多摩に最初の公立図書館が設置されるまでにはまだ20年ほど待たなければなりませんでした。
東京市では明治41年に日比谷図書館が48,000冊、42年に深川図書館が6,000冊の蔵書で開館し、その後大正3年までに3,000冊程度の簡易図書館を15区に1館ずつ建設します。これに対し多摩地域では日比谷図書館より5年も前の明治36年1月20日、規模こそ小さいものの五日市の戸倉村に最初の村立図書館が誕生します。戸倉村では「村民、殊に青少年に対して健全な図書を備えて閲覧させることはきわめて大切なことである」として千数百部の図書を備えた戸倉村簡易図書閲覧所を開設し、明治42年に戸倉図書館と改名します。また、42年2月には五日市町教育会が新聞ならびに図書縦覧所を設けており、44年9月には町立八王子図書館(大正6年に八王子市立図書館と改称)が旧八王子女学校の校舎を転用して開設します。まさに自由民権運動以来の学習熱と進取の気風が多摩に図書館を誕生させたのです。しかも、八王子市立図書館は活発に利用され、大正7年の統計では蔵書数3,700冊、年間閲覧冊数35,000冊で、利用者の大半は児童です。大正6年4月には北多摩郡教育会の働きかけと寄付金によって郡立図書館が開設されますが、規模が小さくあまり利用されなかったようです。
また、『昭和五年度全国青年団基本調査』によれば、東京府郡部(昭和7年10月まで多摩三郡の他に五郡が存在した)には39の図書館と89の巡回文庫が数えられ、その内14の図書館と86の巡回文庫が青年団本支分団に設置されています。これらの実態はあまり知られていませんが、多摩地域にも青年団の設置した相当数の図書館や巡回文庫が存在し、活動していたものと思われます。
戦後の図書館の発展
戦争によってこれらの図書館のほとんどが閉鎖し、終戦間近まで存在した八王子市立図書館も昭和20年8月2日の空襲で建物と一万冊を超えていた大半の蔵書を消失してしまいます。しかし、戦災と物資の不足にもかかわらず戦後の図書館の設立には目覚ましいものがあります。終戦の翌9月には疎開してあった一部の蔵書をもとに八王子市立図書館が活動を再開したのを始め、21年には8月に武蔵野町立図書館(22年9月に武蔵野市立図書館と改称)と11月に東村山町立図書館(31年に閉鎖)が創設され、22年には都立立川図書館と青梅図書館が相次いで設立、23年4月には氷川町立図書館(30年4月に奥多摩町立奥多摩図書館と改称)が、26年11月には村山村(現武蔵村山市)中久保図書館が開館しています。30年代に入ると30年1月に八王子市立図書館が東京都に移管されて都立図書館が3館になったのを皮切りに、31年9月に町田町立町田図書館、36年4月に府中市立図書館、37年6月に奥多摩町古里(こり)分館、39年8月に小金井市立図書館、39年10月に三鷹市立三鷹図書館と次々に図書館が開設され、30年代末には3館の都立図書館と8館の市町村立図書館が存在するにいたります。
戦後になってようやく多摩地域に都立図書館の設立をみますが、都立立川図書館は立川市柴崎国民学校内に間借りし、蔵書は都立牛込図書館と四ッ谷図書館からの移管図書、都立青梅図書館は青梅国民学校に小石川図書館の焼け残りの蔵書を移管して開館したものでした。しかも、23年の蔵書数は都立立川が3,800冊、青梅が5,400冊で、開館時間は正午から5時までとあまり期待できない状況でした。このような状況の中で武蔵野市立図書館の活動は目覚ましく、この年の蔵書数は6,000冊を数え、毎月15日以外は年中無休(祭日・土日は午前中)で開館しています。そして、佐藤忠恕館長の積極的な運営によって、32年度末の蔵書数は2万冊を超え、中でも「武蔵野文庫」は不朽の地域資料コレクションとして高く評価されています。
ところで、この時代の図書館の利用は館内閲覧中心でしかも有料でした。例えば都立青梅図書館では1円の入館料を取っており、25年4月に公布された「図書館法第17条」によって無料の原則が打ち出され、26年に無料にするまで入館料を出せない者にとっては無縁の存在でした。まして、館独自の図書購入費がなく日比谷図書館からの配本を待つ以外新しい本を手に入れようのない時期に、久保七郎館長は会員を募って会費を集め独自に新刊書を購入して、会員の自宅までリヤカーで本を運ぶという画期的なサービスを開始します。24年12月、「青梅訪問図書館」の誕生です。このサービスが移動図書館の原形となって、28年7月から移動図書館車「むらさき号」の巡回が開始され、33年11月には都立3館に1台ずつ配車されて、多摩全域に図書館サービスを普及させてその必要性を多くの人々に認めさせるにいたります。また、久保館長は現在では当り前になっている利用者が直接書架から本を選べる「自由接架」や「個人貸出」制度を実施し、「西多摩読書施設研究会」や「西多摩郷土研究の会」を結成するなど、卓抜した見識と、多摩の図書館史上忘れることのできない大きな業績を残しています。
武蔵野市立図書館や都立青梅図書館のように積極的な図書館活動が展開される一方で、この時代の図書館は入口で住所・氏名を記入して入館票を受け取り、閉架書庫から出納される本を館内で閲覧するという限定された利用方法が主流で、まだ利用しやすい図書館とはいえませんでした。
開かれゆく図書館
このような状況を打破し、図書館を親しみやすく利用しやすいものにしたのは日野市立図書館でした。40年9月に移動図書館によるサービスを開始した日野市立図書館は、これまでの公立図書館の資料費とは比べ物にならない破格の資料費を持ち、たくさんの新しい本を利用者の手元まで届け、簡単な手続きで誰にでも無料で貸出したのです。しかも、サービス対象を婦人と児童を中心にした蔵書構成と、リクエスト制度の導入は利用を大きく促進しました。このことは多摩地域の41年度の貸出統計を見れば顕著で、日野の貸出冊数は231,228冊、小金井・調布・府中・町田・武蔵野・奥多摩の6市町の合計が95,436冊、都立3館の合計が111,370冊で、日野市立図書館1館の貸出冊数はその他全館の貸出冊数の合計を遥かに上回っています。
しかし、これが日野市だけの特殊な事例で終ったならば、現在のような多摩地域の公立図書館の発展はなかったかもしれません。それを決定づけたのは府中であり、町田であり、41年6月に新たに開館した調布市立図書館でした。これらの図書館活動が相侯って、より利用しやすい図書館が作られていったのです。
府中市立図書館は42年3月に新館を開館し、資料を充実させて貸出を重視するととともに、日本で初めておはなし室を設けるなど児童サービスに力を入れ、43年8月からは移動図書館車を巡回させます。この結果、41年度には28,000冊であった貸出冊数が44年度には25万冊を超えます。
町田市立図書館も45年10月から移動図書館車を巡回させ、42年度には3万冊に満たなかった貸出冊数が46年度には50万冊近くなります。
調布市立図書館は当初から市域全体の図書館網の整備と、読書会活動などによって市域との繋がりを大切にした活動を展開し、44年8月の国領分館を皮切りに毎年1~2館の分館を開館させます。この結果、45年度には11万冊、46年度には20万冊と貸出を延ばします。
このような活動を背景に45年6月には東京都が『図書館の政策と課題』をまとめ、公共図書館の振興施策を示し、46年度から図書館建設費の2分の1補助と資料費の2分の1補助を実施しました。このような図書館運営の明確な指針と財政援助によって多摩地域の図書館数は飛躍的に伸び、45年度には14館に過ぎなかったものが51年度には64館とわずか6年問で4.5倍になります。また、明治以来図書館サービスの上で劣悪な条件にあった多摩地域が、48年度を境に登録者数・住民1人当りの年間貸出冊数・住民1人当りの図書購入費などが区部を大きく引離し、全国的にも図書館サービスの進んだ地域として注目されるようになります。
東京都の財政援助は建設費が50年度、資料費が51年度で打切りになりましたが、多摩の「進取の気風」は図書館を生活に欠かせない施設として発展させ、63年9月に檜原村に移動図書館車の巡回が開始されるにおよび図書館未設置の自治体を皆無にしました。そして、小平市立中央図書館のように蔵書数が100万冊を越え、北多摩北部6市で図書相互利用システムが始まるなど、どこに住んでいても十分なサービスが受けられるように図書館システムを整備するとともに、より多くの蔵書と質の高いサービスが図られ、平成3年4月現在、154館と21の移動図書館車を持つにいたっています。
しかし、地域文化は単に図書館だけで支えられるはずはなく、博物館・文書館・資料館および大学や企業の図書館などの類縁機関との相互協力と機能分担なくして十分な資料提供はできません。そして、今後は地域情報のネットワークと総合化が求められ、より広く地域と連携した図書館活動が必要とされています。公立図書館に地域の類縁機関や研究をしている人達との繋がりを広めながら、昭和50年以来郷土資料活動をしてきた三多摩郷土資料研究会のような組織が育ってきており、図書館は市民生活に欠かせない機関の核として開かれてゆくことでしょう。