東大和の道総記

東大和の道総記

2011年7月23日
14:37


東大和の道

鎌倉街道
八王子街道
江戸街道
青梅街道
桜街道
志木街道
清戸街道
河岸街道
芋窪街道
道者街道
四ッ街道
貯水池周囲道路
都市計画道路



【東大和市の道】

①はじめに

 総ての道はローマに通じる、という古諺がある。日本の道も人の営みにつれ、次第に時の勢力の中心に向って開かれ、消長を繰り返してきたといえる。

 狭山丘陵の渓間に発達したわが市域の道も同じである。有史以前はけもの道同様に人のくらしのある所には自然に人が歩く道が山を縫い、川に沿って開かれていたことであろう。

 畿内の大和や平安京が政治の中心であるころは、主要路である東山道や東海道などの官道が既に開かれていたものの、関東の道が画期的な発展をとげたのは、鎌倉幕府が開府されてからといわれる。

 このとき鎌倉へ向かう主道のほか、多くの間道が網の目のように各地に開かれていった。今も鎌倉街道として各地に八百年のロマンを語りかけているが、主要道は上・中・下の三本の道である。このうち上の道または西の道といわれる道が当市域に近く、府中-分倍河原-関戸-町田-鶴間-片瀬-腰越-鎌倉という道筋である。武蔵府中への道として古くは武蔵大路とも称されていた。

 東大和市域で府中道、鎌倉道と呼ばれていた道は、古絵図や古老の話の中に窺うことができる。

 天保十一年(一八四〇)の麁絵図(あらえず)によると、府中道と表記されている道が二本ある。一つは現在の青梅街道で、市域のほぼ中央を南北に走っている。北は貯水池の中を通って埼玉県側の新堀村(所沢市)へ向っている。他の一本は青梅橋から高木村内を通って北へ向い円乗院前から狭山田圃の東を抜けて貯水池内の宅部村から荒幡村(所沢市)へ出る道である。

 現在、青梅僑(東大和市駅前)から三小方面へ向うバス通りを六、七十㍍ほど行くと左折する道がある。北上すると都営高木団地を過ぎ、新青梅街道へ出る。市の都市計画では、青梅橋・大和線と重なっている。新青梅街道を越すと、旧道は狭山田圃の東を北へ進み貯水池用地内の杉本坂を下って杉本地区から宅部川を越し、西楽寺池という田用水の西側を登る山越えの道と思われる。貯水池(多摩湖)完成前は、奈良橋の八幡神社東の道と共に湖底となった地域の住民に多用された道である。当時としては道幅も広く、二間(三・六㍍)から二間二、三尺(四・二-四・五㍍)あった。

 以上は府中道と古図に表記された二本の道であるが、前記の八幡神社の東側の道も山を越す道で八幡坂といわれた。昔は鎌倉街道と呼ばれたという口承がある。他にも芋窪に鎌倉街道といわれた道があった。この道も古図には道筋を残していて、さこそと察しがつくが、現在は切れ切れになっていて、一部が住宅地や少なくなった畑の側に残っているという状況である。

 これらはかなり古い道筋といえる。南北に通る道は、江戸期以降はこの土地としてはむしろさびしい道になってゆき、もっぱら原にある農地への農耕の道として利用されるのが主になった。

 江戸期には、江戸への道が発達する。市域を東西に走る道である。特に官道ともいえる旧青梅街道(桜街道)が江戸開府慶長八年(一六〇三)後、程なく青梅成木の石灰の運搬路として拓かれた。江戸城修築に石灰の供給が急務とされたから、青梅から甲州道中の起点内藤新宿までほぼ一直線の近道を通したのである。この道は官道であるから当初から広い道幅を設定したようで、正保国図武蔵国道法には概ね道幅四問から五問とある。七・二~九㍍になる。当市域でも随一の大道が村の最南端を走ることになったわけである。

 当初成木街道と呼ばれたこの道は、その後、青梅道・甲州脇往還・江戸街道など各地でさまざまに呼称された。

 芋窪では桜街道を江戸街道といっていたとも聞くが、この辺で一般に江戸街道というのは現在の新青梅街道である。東西の道の二本目である。西多摩地方から江戸へ産物を運ぶ道路として南の青梅街道より多用されたともいうが、畑中のさびしい道で、時には追剥ぎの心配もあったとか。

 東西の道は、この他にいわゆる本村地区を結ぶ村山道(志木街道)・清戸街道などが主要な道で、より日常の生活に密着していた。

 ほかに、前述の天保の絵図には、奈良橋村内と蔵敷と芋窪の境に砂川道と表記された二本の道が南北に走っている。府中道の支路で、一本は現在のいちょう通りと一部重なっているようである。

 さて、これらの道の規模はどんなであったろうか。「延享三年(一七四六)丙寅三月、奈良橋村農道改連判帳」によれば、「札辻より東高木境迄往還二間道 日月前南東覚院塚通り弐間道」「札辻より南府中道弐間」とあり、広い所でも二間(三・六㍍)で八王子海道九尺(二・七㍍)、十殿権現前清戸街道八尺(二・四㍍)である。この連判帳は、「本村の往還が弐間、脇道九尺、馬入道六尺、古新田の砂台通りの往還が弐間、脇道九尺」と大体の状況を書き記し「帳外の外の道もあり、道中も狭くなっているので惣村中立合で改めた」旨の確認の連判帳である。この中には今の桜街道の記載がないが、「織部塚の所五間余の馬立場なり」とある部分が街道の一部に当るようである。このように主要道でも、二間二、三尺が広い道で明治になっても同じであった。前述のように唯一広かった桜街道は、大和村役場作製の地図では五間二尺あり、芋窪地内では六間二尺の所もあった。広すぎたせいか一部畑地として払下げたこともあったそうである。

 以上述べたのは主として古い道についての概略である。当市では都市計画に添って新しく道を開き、整備も行ってきた。

 次に個々の道路について詳細を記すが新しい道については割愛することにする。

(道と地名と人のくらしp14)