東大和市の中学校 『東大和市史資料編』1P130~133
六・三・三制がスタートし、大和村立
大和中学校は、一九四七年(昭和二十二)
五月に開校。村立大和小学校の北側校舎
三教室を借り、午後からの授業を始めた。
午前中は小学一、二年生が使う教室だっ
た。
その後、日立青年学校校舎を借り、昭
和二十二年九月八日から移った。
翌、昭和二十三年十二月二十六日にこ
の校舎を買収。昭和二十五年十一月一日
からは買収した校舎全部を使用した。
教室はベニヤ板で仕切られているだけ
で、授業する教師の声は隣室に筒抜けだ
った。
「私たちの中学校は、桜街道へ移りまし
た。鎌や草かきを持って初めて出かけた
校舎は背よりもずっと高い雑草の中に古
ぼけた二階建の下の部分がほとんど埋め
つくされていました」
第三期生の述懐である。
校庭の整地は一学期間、午後、毎日学
校ぐるみでやった。と、当時の一教師が
話した。
樹木も自分たちの手で植えた。中学校
が現在の一中の地に移転した時は、それ
らの移植は職員、生徒、住民の手で行わ
れた。
これが当時の中学校校舎の様子である。
兵舎設置反対運動が成功せず、期成同
盟も解散ということになって、その後は
校舎移転の場合の費用を獲得する線で、
村の運動の方向は決まり、国に打診して
いくことになった。これには米軍兵舎設
置対策委員会(村長・議長・教育委員長
を含む十一名)が当たった。
一九五三年(昭和二十八)五月十三日、
対策委員七名が外務省に出向き、伊関国
際協力局長と和田事務官に村の要望を伝
えると、
「反対運動をやめるなら地元の要望に何
なりとそいたい。学校の移転もできるだ
けめんどうをみるから、要望内容を書類
で出してほしい」
と答えた(昭和二十八年五月一五日・
朝日新聞)。
しかし、中学校の敷地は実際には接収
の区域には含まれておらず、教育環境を
守るため、というだけでは移転の費用も
涙金程度に終わるのでは、との悲観的観
測もなされていた。
一方村内部では中学校敷地売却問題で
もめていた。
南街地区の人たちは、中学校を遠くへ
持っていかれるので動き始めた。南街の
対策委員会は、当時の八三一世帯につい
て、学校移築の賛否を調査。反対が七三
七票、条件つき賛成が八八票、無効六票
との結果を得た。
これに対して本村側では、この機会に
中学校を村の中心地である小学校近くへ
の動きが活発化。中学移転をめぐって本
村と南街の対立をうきあがらせた。
国との度重なる接衝の結果、九月に入
って移転補償費五四九〇万円余りが提示
され、村はこれを内諾した(昭和二十八
年九月六日・朝日新聞)。
しかし、国は「中学校を別の土地に新
築するとの要求はのみがたい、移築にし
ては」と言い、しかも移築する前に、現
在の中学校敷地二万八二五八平方㌶(約
三五四八坪)を、兵舎敷地の一部として
追加提供しなければ費用は出さないとい
う。
一九五三年(昭和二十八)十月七日、
村では臨時村議会を開いて敷地提供を決
定。三・三平方㎡(坪)二四〇〇円でこ
れを国に売り渡した。この額は当時、青
梅橋駅(現東大和市駅)付近の都道隅切(すみきり)
でついた額である。強制収用で国が西武
鉄道から買いあげた額は、三・三平方㎡
(坪)八五五円であった。
追加提供した敷地は、米軍兵舎建設に
は使わず、図書館かグラウンドのような
ものにしてほしいこと、返還の際は、村
へ優先的にゆずってほしいことを、条件
として申し入れた。
敷地の提供が決まっても補償問題は、
なかなか解決しなかった。
総補償額、四三四八万六四六一円が交
付されたのは一九五五年(昭和三十)十
月二十九日である。
一九五六年(昭和三十一)二月、新校
舎落成内祝。三月に一、三年生が新校舎
に移り、第九回生は新校舎から巣立って
いった。六月になって残る二年生が移転、
これで全校生徒が新校舎に入った。
昭和三十一年度、重点施策として体育
館が建設された。面積は七四四平方㎡。
当時これだけの設備・施設を持つ公立中
学校は、近隣市町村にはなかった。p133
当初は、基地建設に関わる国からの補償費で対応することが考えられました。しかし、国との折衝で、困難であることが明確となり、現有敷地28,258平方メートル(約8,548坪)を国に買い取るよう要請し、新たに学校用地を取得する事になりました。
運動の結果、3.3平方メートル(1坪)当たり2,400円で国に売却する事が合意されました。現在の市立第一中学校の位置に用地を獲得して、新校舎を建設することになりました。
この間に大きな変化がありました。基地の建設通知を受けた昭和27年(1952)当時は村でしたが、昭和29年(1954)5月3日、大和町となり、行政的にも幅を広げました。
昭和30年(1955)、大和中学校校舎新設に着手しました。
昭和31年(1956)2月、校舎は完成し、旧青年学校利用の建物から移転しました。