東大和市の修験1

東大和市の修験1

 かつて市内に修験道を中心とした圓達院、持寶院、覚寶院、大徳院、常覚院の五か院の存在が知られているが、これらの寺院がどれほどの規模であったのかは残念ながら不明である。ただ修験道寺院では一般の葬式や法会の執行は禁止されていたため、墓地などはなかったものと考えられ、在来の仏教寺院のような規模ではなかったであろう。むしろ修験の道場と考えたい。

ア 圓達院 清水村

 本山派の修験。府中門善坊末。

『狭山之栞』

 氷川神社、
・別当は府中門善坊霞下なる照林山神宮寺圓達院にして
・昔、宮倉権之丞と云ふ人本山修験となり三覚院と號し
・其子、龍蔵院圓達坊より代々圓達院と號し、
・維新の際復飾して清水大学と改称、神官となり後に安清と改名す。」
 とあります。

  五十嵐民平著『五十嵐氏考』

 長い間、清水村の名主を務めた五十嵐家の民平氏が記された『五十嵐氏考』に紹介される
 「清水村村鑑明細書上帳」(天保14年・1843)に御朱印として次の記載があります。

「御朱印  高八石
   内 高三石 新義真言宗 三光院領
     高五石 氷川社領 本山修験 別当延達院」
 と圓達院が延達院となっていますが圓達院と解され、氷川神社を管理していました。

イ 持寶院 清水村

 旧清水村にあった大聖山持寶院は、修験本山派に属し、聖護院宮末で小田原玉龍坊配下府中門善坊末。最初江戸に住んだ武家の大久保掃部が入道し、本山修験となる。その時期は明らかにされていないが、始祖宗山は金剛院を名乗り、二世の柳覧は持實院と号し、その後三世慶岳、四世源良、五世良山、六世英岳、七世宗岳、八世俊海、九世源海、一〇世良源、十一世慶博、十二世柳光、十三世柳観、十四世柳讃、十五世有慶、十六世陸通、十七世恵俊、十八世康にいたる。

 『里正日誌』の天和三年(一六八三)「持寶院継目二付門善坊ヨリ下シ文」、「同宝永元年(一七〇四)「清水村持寶院江地頭ヨリ祈薦料差置並大日同江指置」などの記録があり、また天保十四年(一八四三)の『清水村村鑑明細帳』に「御除地」として「境内一反歩本山修験持寶院」の記載が見られる。また下の大日堂の本尊石造大日如来像(現存)の銘に持寶院の名が刻まれている。

ウ 覚寶院 奈良橋村

 八幡山覚寶院は、本山派の修験で当院も聖護院宮末小田原玉龍坊配下で府中門善坊の霞下に属していた。奈良橋村の八幡宮、山王社は覚寶院が別当寺をつとめていた。明治二年、十一世承盛の代に押本肇と改名し、翌明治三年に神官となっている。

 覚寶院のことは、後に引用するように、いくつかの文献に散見するが、『里正日誌』の元文三年(一七三八)の記録として、「奈良橋村鎮守八幡宮本地箱上書武州多摩津奈良橋本村別当覚寶院」とある。

八幡神社の神官・押本克巳氏の屋敷内に護摩堂が現存し、護摩壇もそのままに残されている。この護摩堂は現在八幡神社の遥拝所にあてられているが、覚寶院の時代には護摩を焚き祈祷などを行っていたという。また堂内には妙見菩薩像、不動明王像がまつられ、法螺貝、金剛杖、占箱などが伝えられている。

市内・奈良橋二丁目六二六番地の押本家は現在も八幡神社ほか数社の神主をつとめる神職にあり、それまで代々覚寶院をつとめてきた押本家には覚寶院に関わる江戸時代以来の多くの古文書が残されている(『東大和市古文書目録(2)』東大和市教育委員会一九八八年)。

エ 大徳院 奈良橋村

 愛宕山大徳院は、本山派の修験で府中門善坊の配下にあり、奈良橋村の愛宕社は村内大徳院の持であった。『新編武蔵風土記稿』に「除地、二段、修験なり、府中門善坊の末、愛宕山と称す、寛永十六年聖護院宮より、金欄の袈裟を賜りしと、その故を伝えざれど、この頃よりの修験なるべし」とある。ただ、押本家に伝わる系図では、大徳院高祖として東覚院傳海法印をあげて、その寂年を明徳元年(一三九〇)としている。明治に入り大徳院を廃し、押本愛丸と改名し神官となった。

オ 常覚院 宅部村

 本山派の修験。鎌倉権五郎景政の家臣であった寺嶋小重郎が霊光山東光院と称して聖護院宮の末となり、その子東光坊の後、常寶院長慶が跡を継いで以後代々愛宕神社の別当職を勤め、また鎌倉権五郎景政の霊を祭る御料神社の別当寺でもあった。府中門善坊の配下であった。

以上五か院はすべて本山派の府中門善坊の配下に置かれていた。また神社の別当寺をつとめ、あるいは神社を管理するなど、日本古来の神道と修験道との深い関係を保っている。そして明治の神仏分離、国家神道統制の施策のもとに、修験道は廃され、神道に吸収される結果となった。



 次に現存する「湯殿山供養塔」および「出羽三山供養塔」について考えてみることにしよう。
湯殿山を中心とする出羽三山は、山形県のほぼ中央に連なる月山(標高一九八○㍍)、湯殿山(一五〇四㍍)、羽黒山(四一九㍍)をいう。北の地にあり、厳しい自然と山容をもつことから、古くから崇拝され、やがて苦行性のつよい羽黒修験を生み出した。平安時代になると出羽三山の信仰に関する記録も散見し、平安時代末期の羽黒山には修験教団が成立している。鎌倉時代以後、東三十三か国が羽黒領となり、三山は歴史上はげしい抗争はあったものの、ますます栄え、各地からの参拝、登山を集めるようになった。

 逆にまた三山を信仰する修験の寺院、道場も各地に迎えられた。

 東大和市内にもさきにみたように修験の寺院は建立され、江戸時代を中心に栄えていたが、出羽三山と東大和を結ぶものとして出羽三山供養塔の造立がある。市内には、現在二基の供養塔が確認されるが、隣接する東村山市や武蔵村山市をつなぐ狭山丘陵にはさらに多くの出羽三山供養塔が現存している。


蔵敷の庚申

まず「湯殿山供養塔」は、蔵敷の庚申塚にある。この供養塔は高さ五四・○センチメートル、正面の幅二三・五センチメートル、奥行き一五・六センチメートルの角柱の塔身で上部の左右を面取りして丸みをつくっている。上方に破損や石の剥離がある。方形の台石を二段重ねにして上段には蓮弁を彫刻して飾る。塔身の正面は縁を少し残して二センチメートルほど平滑に彫り窪め、碑文を刻んでいる。

碑文は、中央の上部に梵字を表すが破損のため判読し難い状態である。その直下から下辺まで「奉造建湯殿山大権現敬白」の文字が彫られ、それを中心に左右に「天下太平国土安全天明二壬寅年九月
吉日」の銘が陰刻され、右側面に「武集多摩郡蔵敷村 行者玉泉坊」とあり、この供養塔が江戸時代中期の天明二年(一七八二)、に蔵敷村の行者玉泉坊が関与して造塔されたものであることが知られる。

実はこの造塔については、蔵敷二丁目の内堀一郎氏蔵文書のなかに、天明二年十一月の年記のある「湯殿山供養」の表題が書かれた古文書が保存されている。この古文書は半紙を二つ折りにして三枚重ねで綴じたものであり、表紙に「湯殿山供養」の題書と「天明二年寅十一月□廿二日」と書かれ、その内容は、上段に一律に金額百文と下段に藤八以下二八名の人名を書き連ねている、いわゆる寄進帳である。大半は蔵敷の人と思われるが、末尾に石川(一名)、所沢(一名)、三ケ嶋(二名)の人達も加わっている。さてこの古文書は、さきの湯殿山供養塔の建造に関わるものであり、供養塔の完成にあたり記録されたものである。

湯殿山信仰に関連して、もう一つ蔵敷の太子堂の前に、出羽三山の供養塔がある。高さ八二・○センチメートル、最大幅八○・○センチメートル、厚さ約七・二センチメートルほどの石の表面に「月山羽黒山、湯殿山供養塔」の出羽三山の文字を隷書体で彫り付けてある。

この供養塔には、いわゆる銘文がないので造塔の経緯はよくわからないが、明治期のものかと思われる。

このような「造塔」という行為そのものが信仰のかたちを意味するものであるが、日常の性格のなかでは具体的な信仰はあまりわかっていない。そのようななかで、内堀一郎家には、胎蔵界大日如来の木版画像の軸装本が保存されている。紙本墨摺りで彩色は無い。画面の中央に大きく大日如来像を現わし、下端に横書きで「湯殿山注連寺」とある。このような掛軸は一般に流布したものであるが、修験に関する信仰の一端を知ることができる。

また、五十嵐民平氏は自著の『五十嵐氏考』(昭和五十五年三月)のなかで、先祖の清左衛門重次(延宝四年十一月十五日没)は、その生涯で三十六度、出羽三山に参詣し、村人の平安と子孫の息災のために、大日堂を建立したことを述べている。この大日堂は、『狭山之栞』に「金剛庵大日堂は狭山峯にあり。本尊金剛界石佛極彩色の大日如来は長一尺五寸。本堂二間四面、飛騨国甚五郎の作也。大風の時吹き歪めしが日ならずして又元の如くになりしと云ふ。五十嵐一家の墓所あり」とある。

また『新編武蔵風土記稿』に「大日堂除地二段、村の中央にして北よりなり、常二間に二間反南向、大日は石の坐像長二尺一寸許、此堂は里正清左衛門が先祖建立せし由を云へど、その年代は詳生らず、堂の傍に里正代々の墳墓あり」とあるのに相当する。今は墓地とともに三光院に移され、石造大日如来像がまもられている。

この大日如来像の台座の敷茄子の正面部分に「奉造立普門尊像一躰 天下太平国土安全 家門繁昌 祈師長 二世安穏や也 正徳二壬辰年三月吉日 大清山本山修験 持寶院」の刻銘があり、本像の造立にはたしかに修験の持寶院がかかわっていたことを明記している。

同様に、修験が関わる石造物をあげて見ると、

・奈良橋 八幡神社境内 富士浅間社
         享和二年(一八〇二)
         別当覚寶院

・奈良橋 八幡神社境内 庖瘡神
         享和二年(一八〇二)
         別当覚寶院

・清水  庚申神社 庚申塔
         享和十三年(一七二八)
         大清水持寶院法印慶伝

・芋窪はやし堂 六十六部供養塔
         明和二年(一七六五)
         芋窪村行者円入

などがあり、合わせてわずかな記録ではあるが、修験にたいする熱心な信仰をうかがうことができる。

以上であるが、東大和市では修験の活動は中世から始められていたとみて良さそうであるが、その内容、実体は不明である。しかし江戸時代には上述のように、少なくとも五か寺の修験の寺院が整備され深く庶民のなかに浸透していたものと考えてよいであろう。この修験道も明治になると、神仏分離令の影響をうけ、やがて消えゆく運命にされされる結果をむかえなければならなかった。修験とその寺院は廃され、そこに活動の拠点をおいていた行者・僧侶の多くは改姓し、神官というあらたな道への転身をはかったのである。

・鎌倉権五郎景政