東大和市の地名1

東大和市の地名1

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であった。下流の流域にも砂に関する地名が多い。

立野
 上・下に分れていた。砂の南で大体新青梅街道までをいう。

口当地内の通称名等

おながし(苧流し)
 苧(麻)を洗い流した所という。奈良橋川が曲がっている所(芋窪三丁目)で、今は近くの内野庄平家の屋号になっている。芋窪村の寛永水帳(内野文書)には「うなかし」と表記されている。

法界(ほうけえ)
 老人集会所付近の称で昔は墓地であった。

オカネ塚
 芋窪内に一筆だけこの名のついた土地がある。番地は武蔵村山である。
サイカチ原
 芋窪四丁目、旧上仲原。
 前項のオカネ塚と共に隣接の武蔵村山分の字名である。当地内では極めて小地区の名で村山分になっていたようだ。棒打唄に「サイカチ原の中までも……」と
あるのはここの事だという人もある。サイカチが自生していたのであろう。

宮田
 豊鹿島神社の神撰米(しんせんまい)を供した田があった所で、奈良橋川に架かる橋の名として残っている。
木戸
 徳川初期、地頭の酒井氏が居住していに所の木戸の跡という。現在は峰岸家の屋号になっている。
木戸前(きどめえ)
 西組の稲荷(宮田稲荷)付近。芋窪四丁目、もと上中丸の内。
陣屋
 もとは地頭の酒井氏の居宅があったという。石井家の屋号になっている。
杉山(お林山 はやしやま)
 地頭酒井極之助(きわめのすけ)の持山だった所で墓石が掘り出された。現在この石は西谷つ
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の墓地に安置されている。芋窪四丁目地内である。
山浦
 山裏の意。中谷つの奥で乙幡家の屋号になっている。
精進場(しようじんば)
 蓮華寺前の道に沿った奈良橋川の西北。そこに住む石井家の屋号である。熊野山の堂を精進場ともいった。
熊野山
 西谷つと中谷つを分ける山に熊野社が祀られていた。堂を建て"精進場"と称して老人の集まりや日待ちに使ったという。
子神田(ねのかみだ)
 蔵敷の内野家文書、「寛永水帳写」に見える。『狭山之栞』にも豊鹿島神社の末社子神(ねのかみ)が記載されている。その供田である「子の神免」のことであるが場所は不明である。
石神
 この名も水帳に載っている。蓮華寺の南にある豊鹿島神社ゆかりの要石を石神と称した。
大茂窪
 水帳には大もん窪とある。場所は不明である。

ウ蔵敷一~三丁目(昭52・2・1制定)

「旧地頭石川氏の郷蔵ありし故村号となりぬ」と『狭山之栞』にある。各地にある蔵舗、雑敷、雑式、雑色などと同様に「雑色」が本来の意味と一般にいわれている。雑色とは、衣服の色が定まっていない身分の低い役人で、鎌倉幕府や社寺の雑役をしていた。それらの人たちが
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いつ、どうしてこの地に住んだのか。

 新青梅街道以北を一~三丁目に区分した。

口当地内の旧小字名
 弁天前・弁天後
  厳島神社の旧称弁天社に依る地名。
 熊野前・熊野後
  村社熊野神社の南北。
 台
  現在の二丁目西側のあたりで、北境の奈良橋川対岸から見ると小高いので、でえがた「台方」と称した。
 久保
  蔵敷・奈良橋分の墓地がある付近から北へ窪地になっている所をいう。

 塚前
  二丁目の中央東寄りに庚申塚がある。その南側をいう。前記の墓地は「塚前墓地」と呼ばれている。

 西芝中・東芝中・西久保・西砂
  全域芝中団地になった。
 東砂
  空堀川の北岸で、東砂公園がある。

口当地内の通称名等
 大見山
  江戸期の小字名で現在は都の水道用地内の南斜面と思われる。
 国領
  大見山の西で同様に江戸期の小字名であった。国衙領を示す地名という。

 御用地
 『狭山之栞』所載
 仙間谷
 同じく『狭山之栞』にある。浅間祠があった所か。

 八ツ田
 古老の話によると「八っ田ぺえら」(八ツ田平かP)という所に御嶽講の御師に供進する米を作った「御師田」(おしだ)があったという。天保十四年(一八四三)の絵図に「字八っ田」も見える。国領の西である。

 姥がふところ
 『狭山之栞』所載。弁天後の地内に当る。厳島神社と内野家墓地を左に見て北上すると五六軒の集落が山ふところにあ
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る。このあたりは昔から冬でも着物一枚違うといわれるほど暖い土地なのでこの名がある。土地では「ばばあのふところ」と呼んでいる。
 荒井戸前
 蔵敷ニー五九〇地内に井戸があった。
 奈良橋川の南岸である。新井戸の意か?
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太子堂の西方に大井戸という水の豊かな井戸があったという。この井戸に対しての命名かも知れない。

 仙光谷津
 宝永年間(一七〇四-一七一〇)の名寄帳にある。奈良橋との境の谷である。
 昔、仙光坊という修験者が住む堂宇があり墓地もあったという。

田島
 蔵敷公民館の近くで、田島田圃があった。本来田に囲まれた畑地を指す。
山王塚
 三本杉または一本杉といわれ杉の木が目印であった三角地で山王社を祀る。この付近は幕末に農兵の軍事訓練をした所で「調練場」(ちようれんば)と呼んでいた。

エ奈良橋一~六丁目(昭51・11・1制定)

 奈良橋の呼称は芋窪・蔵敷・高木の一部を含む地域を総称する郷名であった。芋窪の豊鹿島神社の伝承に、建武三年(一三三六)銘の鐘に上奈良橋村と刻まれていたとある。(『新編武蔵風土記稿』)蔵敷も奈良橋村の枝郷で蔵敷分と唱えていた。
 ナラとは平らにならす意味で、平らな場所、またはゆるやかな傾斜地を表わす語である。全国各地の地名に見られる。奈良橋はナラの地を流れる川に架けハシた橋の意か、またはナラの端の意ともいう。

口当地内の旧小字名

八幡谷戸
 大永年間(一五二一-一五二七)勧請という鎮守の八幡神社がこの谷の西側の丘陵に祀られている。奈良橋としては最も後まで残った田圃が谷戸の入口にある
雲性寺前にあった。谷戸の奥にも田が広がり弁天池がその用水であった。

諏訪前
 八幡谷戸の東側の山は、諏訪社があったので諏訪山といった。諏訪山の西側は狭山分であったが、勢力が強かった狭山から税金対策のため押付けられたので「おっつけ山」と俗称されたという。縄文遺跡のある山で住居跡が発見された。一部は湖畔二丁目に組込まれている。

札の辻
 村の中心部で、江戸時代には高札場が
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