東大和市史
2激しくゆれ動いた村むら p250
(1)新しい地域支配制度
慶応三年(一八六七)、大政奉還(たいせいほうかん)により江戸幕府の支配に終りが告けられた。
新政府は翌、慶応四年(一八六八)閏四月政体書を公布し、江戸周辺地域を「府」、そのほかの旧幕府直轄地を「県」とした。
その結果東大和市域の村むらは、韮山代官江川太郎左衛門(にらやまだいかんえがわたろうざえもん)の所管であった天領分がそのまま「韮山県」に、それ以外の旗本領は、いったん政府に没収された上で「品川県」に属することになった。
実際には、韮山県が慶応四年(一八六八)六月、品川県が明治二年(一八六九)二月に設置されているのだが、二つの県の県域は複雑に入り組んでいたため、県設置の直後に所管する村の管轄替えが行われた。
まず明治二年(一八六九)二月、品川県下の村の一部が韮山県に移管された。
この時、いったん品川県に所属した芋窪村と高木村の旧旗本領分が、韮山県に移ることになる。
次いて四月、今度は逆に韮山県下の村の一部が品川県に移管され、清水新田がこれに含まれることになった。
したがって明治二年(一八六九)四月以降、芋窪村・蔵敷村・奈良橋村・高木村・後ケ谷村・宅部村の六か村は韮山県に、そして清水村だけが品川県に属する
こととなった。
こうした動きは、村人にとってはそれまでの年貢の重い負担やさまざまな制約から解放されるという期待を抱かせる変革であったはずである。しかし、実
際の生活には大きな変化は訪れなかった。というのは明治新政府が作った新しい制度が、それまでの幕府の支配制度をそのまま利用したものであったためである。
特に韮山県の場合、それまでの寄場組合(よせばくみあい)という村どうしのつながりをそのまま継続し、地域の村むらを支配するという方法をとったため、代官の支配地域が県と呼び名を変え、代官が知県事になったに過ぎなかった。
しかも村の内部では、これまでどおり「名主」「組頭」「百姓代」が村の代表としての仕事を担う状況に変化はなかった。
ただし寄場組合を構成する村の顔ぶれには若干の異動があった。韮山県となって品川県との管轄地域の整理が行われると、それまでの寄場組合の編成では不都合な面がでてきたため、寄場組合の再編が行われたのである。
東大和市周辺の村むらは、それまで所沢寄場組合に所属し、実際の生活面でも所沢とのつながりが強かった。
しかしこの再編で、蔵敷村・奈良橋村・高木村・後ケ谷村・宅部村がいったん蔵敷村組合として独立した。
その後さらに、田無寄場組合から分離独立した小川寄場組合に合併吸収されることになった。明治三年(一八七〇)三月のことである。
一方品川県では、明治二年(一八六九)十二月、寄場組合という組織自体を解体して新たに「番組」を作った。清水村は、野口村(現東村山市)・荒幡村(現所沢市)などとともに第十五番組に組み入れられた。
(2)神奈川県の成立
明治二年(一八六九)から三年(一八七〇)にかけて、韮山県・品川県の所管地域が整理され、新しい支配地域のまとまりができ上がった。
この時点での東大和市域の各村は、韮山県の小川村寄場組合に蔵敷村・奈良橋村・後ケ谷村・宅部村・高木村の六か村が属し、芋窪村は同じ韮山県ながら拝島村寄場組合に入っていた。
そして清水村のみが品川県の第十五番組に組み入れられていた。
明治四年(一八七一)四月、ここまでの新しい地域編成を基盤とすることを前提に、いわゆる「戸籍法」が布告された。
宗門人別帳(しゅうもんにんべつちょう)よる人員把握を廃し、居住地を基本とする「戸籍」を作成しようとしたものである。
そしてこの戸籍編成のためにあらたに「区」が設置された。この区の設置は各府県の裁量に任されていたが、韮山県・品川県では、すでに地域的なまとまりとして組織されていた寄場組合や番組をそのまま「戸籍区」として利用した。
蔵敷村・奈良橋村・後ケ谷村・宅部村・高木村の属していた小川村寄場組合ほ「韮山県、一ノ区」となり、清水村の属していた品川県十五番組は「品川県第十五区」となった。芋窪村の属していた拝島村組合は「韮山県六ノ区」となったようである。
明治四年(一八七こ七月、廃藩置県(はいはんちけん)の詔書が発せられ、ついに藩が廃止され、大名領が消滅することになった。
同時にこれまでの府県も廃止され、新たな府県が設置されることになった。
これは、藩を存続させながら旧体制を利用して体制を固めてきた新政府が、いよいよその過渡的な性格を捨てて新しい国づくりに本腰を入れ始めたことを示している。
そして同年十一月の太政官布告により関東地方の改置府県が実施され、多数の小府県が錯綜(さくそう)していた状態を脱し、まとまりのあ
る比較的大きな府県に整理された。
この段階で、多摩郡のほとんどは入間県に属する予定であったが、神奈川県の希望により最終的には神奈川県に移管することになった。
ただし韮山県と品川県では移管の手続きに若干の違いが見られた。
品川県では、一旦入間県に移管され、入間県からさらに神奈川県へ移管されるという手続きが取られた。
品川県から入間県への移管が明治四年(一八七一)十二月、そして入間県から神奈川県への移管は明治五年(一八七二)一月に実施された。
一方韮山県では、入間県をとおさず直接神奈川県へ移管されるという手続きがとられた。
明治四年十二月のことである。
したがって東大和市域の村むらにおいても、神奈川県への所属時期に若干のずれがある。
品川県下の清水村は明治五年一月、それ以外の韮山県下の村むらは明治四年十二月に神奈川県の一員となったのである。
また改置府県やそれに絡む管轄変更によって新しい県の区域が決まると、戸籍区も再編する必要が生じた。神奈川県下では武蔵
国四郡に六十区を、相模国三郡に二十四区を設置した。この時韮山県一ノ区は品川県下にあった清水村・野口村・粂川村(くめがわ)・南秋津
村を新たに加えて神奈川県第五十区に、芋窪村の属したと思われる韮山県六ノ区は、神奈川県第五十一区に編成された。
(3)大区小区制
神奈川県の成立とそれに伴なう戸籍区の再編という手続きは、寄場組合という江戸時代的な組織が、いわゆる行政区画としての
戸籍区へ変質してゆく過程である。
政府は明治五年(一八七二)十月、戸籍区に大小の別を設け行政区として整備することを命じ(太政官布達)、神奈川県ではこれを受けて、翌十一月寄場組合を廃止する通達を出した。
県と村方との間にあった寄場組合というクッションを取り払うことにより、県による村方の支配という構図をより明確にしたわけである。
しかし神奈川県ては、大区小区へ移行する前に「区番組制」(くばんくみせい)を実施している。
明治六年(一八七三)四月、県内を二十の「区」に区分し、さらに区を細分した「番組」を設定した。
この段階で、職敷村・奈良僑村・高木村・後ケ谷村・宅部村・清水村の神奈川県五十区の六か村に、五十へ区に属していた芋窪村を加えた七か
村で、神奈川県第十一区第十番組か成立した。
実質的には、太政官布達でいうところの大区・小区なのだが、なぜか神奈川県では一旦この区番組という制度をとりいれている。
これが名実ともに大区小区制となるのは、明治七年(一八七四)六月のことである。「区」が「大区」に、「番組」が「小区」へと改称され、東大和市域の村むらの属する第十一区十番組は、第十一大区第十小区となった。
(4)狭山村の成立
この時期の後ケ谷村と宅部村は、形式的には別々の村とされていたか、実際には田畑、山林、家屋敷が入り混じって存在し、煩雑な状況となっていたようである。
極端にいえは、隣同士の家が後ケ谷村と宅部村に別れてしまう状態で、生活上も不便なことか多かった。それに加え、明治六年(一八七三)の地租改正条例の
布告にともなう地価調査のため、すべての土地に「地番」をつける必要かあったわけだが、こうした複雑な状況では極めて都合が悪かったのである。
そこで、後ケ谷、宅部の両村を合併しひとつの村とすることになった。明治八年(一八七五)二月、両村の農民八十七人の連名により「村名改称合併願」を提出し、翌月これか認められた。
新しい村名は、地形的な特徴から「狭山村」(さやま)とされた。
(5)地方三新法
明治十一年(一八七八)、いわゆる「地方三新法」と呼はれる三
つの法律が公布された。これは、たび重なる地域制度の改革のた
め、村方の負担は増える一方で、人びとの不満が噴き出しはじめ
たことへの対策として、実施されたものである。「地方税」という
財源を明確にして区町村費と分離させ、県会による審議制度を導
入して地方税の予算管理にも参加させることで、町村の独自性を
保証しようとしたものである。
そしてこのとき、府県の下に郡区が置かれ、郡の下には町村が
置かれることになった。郡の名称は、かつて江戸期以前に使用さ
れていたものを使用したが、区域か広すぎて不便な場合には分割
することが認められたため、多摩郡は西多摩郡、北多摩郡、南多
摩郡の三つに分割されることになった。このうち北多摩郡は、ほ
ほ第十大区、十一大区、十二大区の村むらによって構成され、東
大和市域の各村もここに含まれることになった。そして、郡の成
立により大区小区は消滅し、郡長ならびに各村に置かれた戸長が
事務を引き継ぐことになるのである。
神奈川県では、明治十二年(一八七九)三月から神奈川県会を p255
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者が一四四人も集まって、本格的民権結社「自治改進党」を結成
する。東大和地域から参加したのは、蔵敷村の内野杢左衛門、内
野吉治郎、芋窪村の川鍋正茂、奈良橋村の鎌田佐一郎・関田安太
郎、高木村の宮鍋庄兵衛、狭山村の関田粂右衛門の七名であった。
おそらく前年の府中での演説会に参加した経験のある内野が、周
辺の村むらの有力者に呼びかけたのだろう。
内野家には「自由改進党盟約」という一枚の文書が残されてお
り、明治十三年十二月十一日と日付が入り、五か条からなってい
る。この盟約と翌年一月の自治改進党発足時の盟約(これも二種
類ある)とは、異なっているが、おそらく内野が出席した十二月
の段階での準備会で、一定の方向付けが行われたと考えられる。
準備会での草案は、まず自治改進党ではなくて自由改進党となっ
ていたことに注目したい。またその第一条には「我党は人民の自
由権利を拡張する主義を以て相合す」と自由民権をストレートに
表現していたが、自治改進党では「人民自治の精神を養成し」「漸
を以(もって)自主の権理を拡充」という文面にかわっている。この間の議
論がどのようなものであったかは不明であるが、「人民の自由権利
の拡張」をうたい文句にしたスローガンから、「人民自治の精神」
の養成と「自主の権利の拡充」にかえたことが、党名変更につな
がったことが予想される。
(7)
責善会から中和会へ
さらに内野は、隣の地域(現武蔵村山市中籐と小平市小川)の
メンバーが中心となって「中和会」という民権結社を明治十四年
二月に結成する時にも、その準備段階から重要な役割を果たして
いた。なぜなら、議論の途中経過を示すような中和会の盟約約が、
内野の自筆で幾通りも残されているのである(内野秀治家文書)。
それによると、中和会は最初、「責善会」(せきぜんかい)という名称が考えら
れ、規約は十一条から成り立っていた。「本会の主義は人民の自由
を拡充し、権利を伸張せんとするに在り」とあることなどから、
自由改進党(のちの自治改進党)の規約第一条ときわめて近い。
責善会という名も明治十一年に南多摩郡に同名の結社が誕生して
いることから避けられたのだろう。それが第二段階になると、「本
会の主義は正理公道に基づき民人の幸福を享受(最初文案は増益)
せんとするに在り」となり、さらに最後は「本会の主義は天賦の
自由を伸張し人生の福祉を増益するに至り」となる。この間の議
論の経過は不明であるが、最初は「自由と権利」意識が強烈に反
映するかたちになるが、議論を重ねるに従い、次第に表現がやわ
らかくなっていくのがわかる。各村の豪農層・名望家層などがメ
ンバーの中核を占めていることも、こうした経過をたどる要因に
なっているのかもしれない。
中和会の活動は、毎月、一回演説会を開催している。記録に残っ
ているのは、隣村の中藤村真福寺で第三回が開催されているが(明
冶十四年三月二十七日)、会場が近いこともあって内野をはじめ、
東大和地域の民権家たちは積極的に参加したことが予想される。
この時期の民権運動はすでに村を越えての活動が展開していたの
である。
(8)演説会と若手の登場
東大和地域ではじめて演説会が開催されるのは、中和会の第三
回の演説会のすぐ後の同年五月六日である。芋久保村の昇隆学校
を会場に、東京横浜毎日新聞の竹内正志・吉岡育の二人を招聘し
て、学術演説会が開催された。発起人は「渡辺・内野・河鍋」と
新聞報道されているところから、やはり内野杢左衛門が中核にい
ることは間違いないだろう。「聴衆無慮百余名、場中立錐の地なき
程」と報道されている(東京横浜毎日新聞・明治十四年五月十
日)。この時期になると、内野らのリーダー格ばかりではなく、村
の中にも関心を抱くものがかなり増えてきたといえるだろう。
それから四か月後の九月二十五日、今度は狭山村の円乗院で「自
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るが、「諸君よ、我々は今日此の自由懇親会を該地に開かんと欲
げき
し、新聞紙に広告し、又傲を有志の紳士に送」ったところ、「陸続
来会せられし」とあるように、運動は狭い村や町、さらには郡ま
で越えて広まっていることがわかる。千葉はさらにこの会を開い
た趣旨にふれ「自由の理明かならざれば民権起らず、民権起こら
ざれば自治の気象振はざるなり、自治の気象振はざれば知識いず
くんぞ進むを得んや」と述べ、「国会を開き、立法の大権を人民の
手に掌握」できるようになるために、こうして懇親会を開いてい
るのだと主張している。寺の本堂を借りての小さな懇親会だが、
目的は国会の開設にあることを明言しているのである。それに、
千葉自身がすでにこの地域の運動の中核的存在になっていること
もわかる。
さらに演説会は、同十四年十一月に奈良橋小学校で開催されて
いる。「村山郷」といわれている地域十六か村の有志者が集まって
申し合わせ事項などを協議し、今後の継続的な活動について検討
している。この中には埼玉県入間郡からの参加もあり、県を越え
ての民権交流が行われるようになっていた。所沢で開催の演説会
の案内状が届けられるようになるのもこのころからである。
(10)
千葉卓三郎に
心酔した鎌田喜十郎
千葉と鎌田家との関係でいえば、もう一人忘れてならない人物
がいる。鎌田喜三の弟の喜十郎(慶応元年生)である。親の反対
を押し切ってまで上京を強行し勉学を積み重ねてきた兄・喜三の
もっとも身近にいて、最初に影響を受けたのが喜十郎である。兄
がみてきた世界に、弟がまず最初に強く刺激を受けたのだろう。
彼が民権の世界に関心を持ち始めた時期と符合するように、五日
市の民権運動の理論的指導者ともいえる千葉が、鎌田家に出入り
するようになった。千葉自身はその時、五日市憲法起草の高揚期
にあったと言っていい。一人の仙台藩士として、幕末維新期の変
革期を体験し、敗北して賊軍の汚名を着せられながら新しい生き
方を求めて放浪しつつ様々な人生経験を積んできた異色の人材、
千葉卓三郎に奈良橋の若い青年・喜十郎は、強く魅入られるので
ある。
喜十郎もまた兄同様に村を飛び出して上京し「湯島の法律学舎
に寄宿」するようになるのも、また特に「法律」に関心を持つよ
うになるのも千葉の影響以外に考えられない。また彼が寄宿する
ようになったちょうどその時期、実は千葉が結核の病気治療のた
めにすぐ近くの東京大学付属病院に入院してきたのである。すで
に知己を得てもいたが、彼は千葉の病室を頻繁に見舞い、親身な
看病を続けた。体力の弱った千葉にかわって、口述筆記までとっ
ていたし、手紙の代筆もしたことがある。そんなこともあって鎌
田喜十郎は千葉の最晩年にもっとも親近した、なおかつ最後の「門
人」であった。いわば師弟関係にあったのである。結核患者のそ
ばにいたこともあって、彼もまた、まもなく同じ病に倒れる。明治
二十に年(一八八九)、千葉の死後から六年後、せっかくの咲き
かかった花を少しも咲かせることなく、弱冠二十四歳の若さで夭逝(ようせい)
してしまう。
しかしその時、喜十郎は遺言を残していた。自分が死に水をと
って明治十六年(一八八三)に亡くなった千葉を心から敬服して
いた証拠に、自分の墓には「千葉先生」という文字を刻んでくれ
と。文字通り彼は千葉を師と仰ぎ心酔していたのであろう。
いま、鎌田家の墓には遺言通りの文字が刻印されている。三十
一歳の短い生涯であった「千葉先生仙台之人」という文字の隣
が、若い青年喜十郎の戒名の「修岳院仁智明達居士」となってお
り、千葉と喜十郎は並んでいる。
このように鎌田にとっては、千葉との出会いは単なる師弟関係
を越え、奈良橋村と五日市町も越え、精神的な結びつきに到達し
ていたといえる。三多摩自由民権運動が、全国の他の地域と比較
してもひけを取らない先進的な活動を展開したその背景には、こ
うした狭い地域共同体を越えた人的交流が底流にあったからとも
いえるのである。
この地域の明治二十年代の担い手は、結局、喜三改め訥郎(とつろう)が担
うことになる。
(11)
北多摩民権運動と
東大和地域の民権家両雄の動き
明治十七年(一八八四)十月、大阪で開催された自由党臨時党
大会は、地方から参加した民権家の期待を裏切り、解党大会にな
ってしまった。その大会には、すでに北多摩でもその実力を認め
られていた自由党員の鎌田訥郎(奈良橋村)が出席していた。自
分は「我党のますます隆盛を謀り、且つ(党の)維持法を議する