東大和市史資料編6

東大和市史資料編6

中世~近世からの伝言

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10 東大和市の近世石造物

(1)近世墓標の分類と名称

 近世墓標についての研究は、明治時代に、八木装三郎氏や平子鐸嶺氏の墳墓標識としての塔婆の研究から始まっている。
 老古学的な方法による初めての調査として、昭和十四年、坪井良平氏による京都府相楽郡木津町の墓地の調査があげられる(『歴史考古学の研究』)。氏は、約一千坪の面積にある三千三百基余りの墓標を調査され、その結果、幕標を仏像類、背光型類、尖塔型類、方柱型類、五輪塔型類、無縫塔(むほうとう)その他に分類し,それぞれの型式の変遷と、消長が明らかにされた。

 ここでは、様々な形の墓標を、中世の石塔の系譜にある①塔形(五輪塔・宝篋印塔・無縫塔)とそれ以外の②非塔形(正面形が駒形、方柱状形、仏像半肉彫りのもの)とに区分したいと思う。さらに、それぞれの形式は断面形と、頭部の形態により細分される。

(2)市内の近世墓標

 市内の近世墓は、塔形(五輪塔・宝薩印塔・無縫塔)と非搭形の墓標とに区分される。

塔形の近世墓標

①五輪塔

 市内の近世の五輪塔は、昭和四十六年の調査では、完形に近いものが九基、残欠となった部分のものが八ヶ所で確認されている。ここでは、遺存状態のよかった四基を図示した。

 年代的には、寛永三(一六二六)年銘を有する慶性院・橋本家墓地の一石五輪塔が江戸初期に位置づけられる。
 一石五輪塔は、当初は、畿内、特に、奈良県高野山を中心として造立の流行があり、高野山式五輪塔とまで言われている。
 この一石五輪塔の造立年代については、高野山では寛正二(一四六一)年銘を最古い例として、それ以降安土桃山期の天正年間( 一五七三ー九二)までの遺物が調査によって確認されており、中世後半期から江戸初期の特徴的な塔型式とされている。

 このことからすると、東大和市の寛永銘の一石五輪塔は、一石五輪塔における近世初期の資料として貴重といえる。
 慶性院の歴代住職墓地内の貞享四(一六八七)年銘の五輪塔は、地・風空輪部は、中世末期の五輪塔に見られるような形能心であるが、水輪については、算盤玉
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のような形態を示し、火輪部は、横幅に対する高さが極端に高く、近世期の五輪塔の特徴的な型式の一つといえる。また、火輪部については円乗院や雲性寺の例にみられるように、四隅が極端に先尖りになったり、直線的に造り出されており、いずれも各地の近世五翰塔の特徴と類似している。

②宝筐印塔

 中世の宝筐印塔は、地域的な分布状況から、日野一郎氏の研究並びに川勝政太郎氏(「宝筐印塔に於ける関東形式・関西形式」『考古学雑誌』第26巻第5号)により、箱根の山を境に関東形式、関西形式宝篋印塔などと分類されたこともあるが、現在では、形態的な特徴から全階式、蓮弁式宝篋印塔と大きく区分され、地域的な特徴型式として関東周辺では、沼津を中心とした球心式、群馬県を中心とした積み上げ式などの諸型式設定がされている。

 近世宝筐印塔の特徴として、反花座と、基礎の上部の反花装飾と、相輪部における装飾といえる。
 近世の宝篋印塔は、中世の全階式に認められた基礎上部の階段形式は全くと言っていいほど見られなくなり、すべて蓮弁式の反花形式で装飾される。

 また、相輪部は、露盤を蓮座で造り、伏鉢部を大きく表現し、九輪の数を省略する形式が特徴といえる。
 市内では、露盤部を反花で表現するものと、露盤を省略する形式が認められる。
 この他、塔形式の上ではいわゆる宝篋印塔形式とは違っているが宝筐印塔本来の意味において、宝篋印陀羅尼経を納めた納経の塔が雲性寺にある。 雲性寺の宝篋印塔は、享保十(一七二五)年と干支から寛政五(一七九三)年の造立と思われる塔である。
 両塔ともに、 一切如来心秘密全身舎利宝篋印陀羅尼経(享保元年刊行長谷寺蔵本を参考にしたと思われる)の一部の造塔の功徳が説かれている部分の文言を塔の基壇部に刻んでいることが特徴といえる。享保銘の塔には、基壇正面に「宝筐印塔」の文字が刻まれている。また、寛政銘の基壇一段目左側面には「行者宝永念仏講中」という銘が確認でき、念仏講中衆の合力とそれを纏める行者の存在と、旦那衆が確認でき、組織的に造塔作善が行われた塔として、当時の村、あるいは寺院を中心とした講集団の在り方を具体的に示す資料といえる。

(3)いろいろな石造物

①水天像

 この水天像は、昭和五八年三月に市の重宝に指定されている。銘文から慶性院の第十九世住職円鏡法院慈賢が建立したことが明らかである。
 水天は、世界を守護する十二天の一つで水難除け、雨乞の祈願の対象となったため池や川の辺りに造立されることが多くなっている。
 像は、大正十三、(一九二四)年村山貯水池建設に伴う移転により現在の慶性院の地に移転された、都内三例の内の一つで、大変貴重な塔である。現在も他の庚申塔と共に慶性院門前の祠に丁重に祀られている。

②地蔵を表す塔(延命地蔵の塔)

 幡(どうばん)を持つ法印地蔵

 形態的な特徴は、船型光背に地蔵菩薩が半肉彫りされていて、幡の部分だけ陰刻されている。
 地蔵菩薩は釈迦の入滅ののち弥勒菩薩の出現するまでの間、六道(天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄)の衆生を救済する菩薩で、平安時代の極楽浄土の信仰が盛んになるに伴い流行し、近世になり民間信

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仰と結合し、庶民のあらゆる願いを叶えてくれる仏として祈願され、地蔵講や地蔵盆など年中行事の一つとなった。

 この碑は、施餓鬼会(せがきえ)に造立されたことがわかる。
 箱形の塔身の下に請花がついている石塔である。正面には延命地蔵経が陰刻され、正面の像は右膝を立ててしゃがんでいる。左右三本ずつ腕があり、右手には上から錫杖、小槌、数珠を持ち、左手には上から宝珠、幢幡を持ち、一番下の手は半合掌をしている。

③六地蔵石幢

 塔形の特徴は、上部に笠を持つ六地蔵塔で、方形の塔身のうち正面と左右側面に地蔵菩薩が一面につき二体半肉彫されていて、裏面には銘文が三行陰刻されている。地蔵の下には請花が彫られていたと思われるが、欠損しているためよくわからない。正面右側の地蔵は右手に錫杖、左手に如意珠を持つ鶏亀地蔵(延命地蔵)、左側の地蔵は合掌をしている宝性地蔵(破勝地蔵)、右側面右側の地蔵は柄香炉(えごうろ)を持つ法性地蔵(不休息地蔵)、左側の地蔵は両手で念珠を持つ地持地蔵(護讃地蔵)、左側面右側の地蔵は両手で如意珠を持ち、左側の地蔵は両手で幢幡を持つ法印地蔵(讃竜地蔵 さんりゅうじぞう)と、右手施無畏印、左手引接印の陀羅尼地蔵(弁尼地蔵)である。

 六地蔵は、地蔵菩薩が六道を輪廻転生する衆生を救済する思想から発展して日本で考案された六人の菩薩である。
 六地蔵信仰は、もともと十一世紀のはじめに盛んになった六観音信仰から発生したとされている。

④念仏講中の地蔵

 蓮華寺の地蔵は、丸彫の地蔵菩薩で、請花の上にのっている。右手に錫杖、左手に如意珠を持つ延命地蔵である。銘文からは念仏講中によって造立されたことがわかる。

 「念仏講」とは同士が数人あるいは数十人集まって念仏をする集まりのことで、,常に念仏を唱えることによって
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極楽浄土へいけるという思想に基づくものである。念仏は「南無阿弥陀仏」と唱えるが、地蔵菩薩を主尊とした念仏の塔も多く存在している。

⑤観音の塔

 観音は六観音の一つで、頭上に馬頭を載せているため、庶民の間では馬の守護神のように思われ、馬の健康、そして死馬の冥福を祈る対象とされている。本来馬頭観音といわれる由来は、馬のごとく大口を開いて衆生を救済し、また、馬が野の草を食べるごとく余念なく、しかも疾走するごとく迅速に衆生をすくうという功徳を持っているからであるといわれている。独尊として造立されるようになるのは江戸中期である。以降の運送馬や農工馬が普及する頃からで、その分布は全国にわたり、特に中部以北の東日本で多くみられる。東大和市の例も同じ時代の石塔といえる。

 馬を飼う家や馬を利用する職業集団では、馬頭観音の像を造るようになり、特に江戸時代後期以降になるとこの塔のように馬頭観音の仏名「馬頭観世音」「馬頭観音」などと刻んだ文字塔が多く造られるようになった。のちに牛の飼育普及にともない「牛頭観音」やさらには「豚頭観音」もみられるようになり、鳥取県の安国寺には「愛馬供養塔」などの珍しい供養塔もみられる。

⑥石橋供養の石塔

 清水本村橋の石橋供養塒

 この供養塔は、方柱形石碑で、天保四(一八三三)年 前川に石橋をかけた際、建立されたもので、現存する供養塔のうち同一場所に存する唯一のものである。
 供養塔は、橋の構築と長期の保存を願い、さらには迷いの世界から悟りの世界へ人々を「渡す」という仏の教えにちなんで建てられたものである。 当時の民間信仰の一端を示すものとして貴重である。

 砂の橋の石橋供養塔

 この供養塔は、文化十二(一八一五)年に建立されたものである。方柱形石碑で、砂の川(現空堀川)に架けられた砂の橋の構築と長期の保存を願い、さらには、彼岸のかけはしを連想して、原七郎左衛門母妙智尼が建てたものである。

 その後、この僑が老朽化したため、大正十五年架け替えられ、その際、清水観音堂敷地内に移設されたものである。

⑦庚申塔

雲性寺の庚申塔

 永享十一(一四三九)年に堂字建起と伝えられる雲性寺には、享保元(一七一六)年銘の庚申塔と正徳銘の庚中塔がある。
 正徳銘の庚申塔は、上部に八葉の蓮華を座とした月輪を浮き彫りし、その月輪の中に梵字「ア」字を陰刻している。庚申講中が造立した庚申塔とはその趣を與にする市内唯一の珍しい石塔である。
 下部の三猿も中央前向き、左右横向きに浮き彫りされており、珍しい三猿配置である。銘文は裏面に二行陰刻されておリ、正徳六(一七一六)年に「法印博栄」によって造立つされたことがわかる。

清水村庚申塔

 この塔は、昭和四十九年九月二十円に東大和市郷土資料に指定されており、清水三丁目八六九番地に所在する。この塔は、江戸時代中期、享保十三(一七二八)年の造立で、以前は木立ちがあり、小丘の上に祀られていた。大きさは高さ一二センチメートルあ
 
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り、尊像は合掌形六臂正面金剛像で、上部左右に「日」・「月」を配し、尊像足下に二鶏が陽刻してある。この塔の傍らには野口弥五左衛門が掘った井戸があり、附近の人々や通行人が飲料水として利用していた。傍の道路は「お庚申道」、「清戸街道」と呼ばれていた。

蔵敷の庚申塚と庚申塔

 この庚申塚は、大正十二年に現在地に移転するまでは、現貯水池の取水塔附近にあったもので、当時の面影を再現すべく、現在、塚を二層に築きこの頂部に四基の塔が造立されている。

 四基の石塔の内、中央右側は明和元年(一七六四)造立の庚申待供養塔で、形態は笠付方形石碑である。左上手に法輪、中央にしよけら、下手に弓を持つ青面金剛の像が刻まれている。他の三基は左から湯殿山大権現の祈願塔、馬頭観世音、西国・坂東・秩父を合わせて百番の霊場巡拝供養塔が造立されている。

 以上、市内に遺る近世のいろいろな石塔類について見てきたが、これらの石塔には、銘文が刻まれており、当時の村落名や講中の人名など、様々な情報が刻まれている。また、石塔類の他、三光院には、近世と思われる観音信仰関係の版木や、雷除けなどの御札の版木、あるいは、杉本林志氏が奉納し法華経の品題を刻んだ版木や、観音霊場に関する案内記の版木も遺っており、近世における寺院を中心とした信仰関係の資料が大切に保管されている。

 文献以外の近世史料として、東大和の近世史を明らかにしていく上で大いに活用していただきたいと思う。