東大和市学校教育のあゆみ
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課業表は八級にわけて、使用する教科書・時限・教科配
当などを示してある。時限は九時から三時まで五時限とし、
曜日はなくて、日で教科配当をし、一と六のつく日は教科
配当がない。教科のうち、綴字はかなつかいを扱う時限で
書贋は手紙などについて学習するもので三級以上に配当さ
れてある。
八級から一級まで進むのに、六ケ月毎に定期試験があっ
て、これに合格しないと進級できない。このために同級で
も年令に開きが生じてくる。
次に移りかわりについてのべると、明治八年六月には、
後ケ谷と宅部の二村が合併して狭山村となった。同九年七
月には神奈川県からの達しによって、一村で一校をおく場
合は校名は村名をつけることになって、芋窪学校、蔵敷学
校・奈良橋学校という呼び方に変り、同十年二月には場力
研精の二校を合せて、高狭学校と校名を変更した。十年九
月には芋窪学校と蔵敷学校を合併して、昇隆学校とするこ
とに相談がきまり、芋窪村の中谷(なかやつ)二千七十七番地の鹿島さ
まの境内の官有地九畝二十四歩(九八〇㎡)を学校敷地と
して、無償で払下げをうけて、建坪六十坪、工費一千四百
四十三円四十三銭で請負われ、十二年六月五日開校の運び
となった。その前年十一年十一月七日、郡区町村編成法に
基づき、多摩郡と東多摩。西多摩・南多摩。北多摩の四郡
にわけられ、東大和市地域は北多摩郡に編入された。
明治十二年九月には学制を廃止して教育令が公布された
これは明治五年の学制がわが国の実情に即して組立てられ
たものではないので、実施してから数年たってみると、色
々な問題が生じてくるのは必然的なことで、これに政府の
方針などを打出して定められたもので、以後の教育行政の
基本となった。そのいくつかをあげると、学区制が廃止さ
れて町村別に小学校を設立するとか、府県を通じて補助金
を交付するとか、授業料は地方に任せるとか、学務委員を
選任して学校の設置。保護などにあたらせるなどである。
しかし、それから}年ばかりたった十三年十二月には、改
正教育令が公布されて、小学校は初等科三年・中等科三年
高等科二年となり、外国の知識や技術ばかりとり入れるこ
とにとらわれていて、わが国特有の道徳の扱いについては
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帝国大学令が公布され、これによって、小学校は明治十四
年五月に制定された小学校教則要項で、初等科三年、中等
科三年・高等科二年に改められたのが、尋常小学校四ケ年
高等小学校四ケ年となり、尋常小学校は義務就学となった。
続いて帝国憲法の発布、第一回衆議院議員の選挙など行
われ、内容の充実した国家としての体勢が整ってきた。明
治二十二年四月の市制町村制の施行の際にも、東大和市域
の六ケ村の合併はまとまらず、高木村外五ケ村組合として
四月一日に設置願を出し、六月六日に許可になった。明治
二十三年十月三十日には教育に関する勅語が下賜され、教
育の大本が明示確立して、国民教育全般がこの勅語の趣旨
によらなければならなくなり、教育の内容もこれに基づい
て改められたことは、この以後の教科書を見ても、はっき
りそれを知ることができる。これから後、小学校でも式日
には校長が奉読してきかせ、厳重な作法が要求され、また、
これを暗諦させる扱いもあった。
この頃、蔵敷の少年会・狭山の共励学会などが、青少年
の自覚と努力によってもりあげられ、夜間の勉学の集りが
育っていって大きな成果をあげたことや、一方芋窪の石井
千加良が少年の現状を見て、簡易小学校の設立を計画した
心意気、惜しいことに実を結ぶに至らなかったけれども、
こうした動きは市の教育史上特記すべきことであろう。
また、学校の統合について、明治二十四年十月、杢翁記
録に次のように記してある。
当時の法令により、北多摩郡長奥村精一は、高木村外
五ヶ村組合に昇隆・奈良橋・高狭の学校あるも、現在新
築の二校(芋窪・狭山)とすべしとの原案を示して、村
会に諮問せらる。組合村会に於て、何分にも奈良橋村民
が自村の学校を廃することを肯(がえ)んぜざれば、本組合に三
校とし、組合連帯経費として、表面上三個の学区を置か
ざることとするも、奈良橋におく学校費は他の二校の按
分比例とし、同村に限り独立の経費を定め、比例以外の
金額は同村特別寄付として支出し組合の収入とし、相当
学校費予算を定む。その他の事項を約束して左の通り、
明治二十七年八月二十六日に至り決議上申する。
昇隆学校を第一村山小学校とし、
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奈良橋学校を第二村山小学校とし、
高狭学校を第三村山小学校とし、
以上、高木村外五ケ村組合立小学校と定め、その経費は
連帯支弁とす。明治二十七年十一月廿日郡令第一号にて
三校に指定、校名改称許可
これによると、郡長から三校を二校にしてはどうかとの
諮問をうけ、組合村会にはかったところ、奈良橋の廃校に
強い反対が起り、色々協議の末、表面上は郡の考どおり二
校とし、内面は従前通り三校とし、奈良橋校の経費は按分
して出すのと、奈良橋の寄付金などで支弁することに約三
年がかりで決着を見て、二十七年十一月二十日に許可にな
って、第一・第二・第三の小学校が認められ、校名も改称
することになった。苦心の程がしのばれる。
なお、歴史的にも、多摩川の水域からみても、当然東京
府に入るべき三多摩が、神奈川県に編入されてから二十余
年、多くの問題をかかえていたが、玉川上水の管理・水源
の保全等行政上の不便を取り除くための一応の努力が功を
奏し、編入されることになったが、自由党と改進党との勢
力争いなどがからんで、複雑な動きのうちに明治二十六年
四月一日から東京府編入の実現を見て、東大和市域も神奈
川県から東京府に移管された。従って校名も東京府北多摩
郡高木村五ケ村組合村立○○小学校と呼ぶことになった。