東大和市消防の歴史(『東大和市史資料編』10

東大和市消防の歴史(『東大和市史資料編』10

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②明治・大正時代

 明治維新を迎え、諸制度が改革され、町火消は、町奉行の改称である、市政裁判所に属し、後に東京府の管轄に移った。
 明治三年(一八七〇)に、東京消防局が設けられ、次いで明治七年(一八七四)、警視庁が創設され、消防事務が管理されることとなった。

 今日、新春行事の一つとなっている、消防出初め式の起源は、万治二年にさかのぼるが、明治八年、東京警視庁は、青山練兵場で、第一回の出初式を挙行した。これが、公式の出初式の最初である。

 明治十二年(一八七九)八月には、上野公園で天皇行幸のもとに、天覧消防訓練が実施された。
 当時の東大和市は、神奈川県に編入されていたが、清水・狭山・高木・奈良橋・蔵敷・芋窪の壮年たちは、腰弁当で、明治八年(一八七五)の出初式や、同十二年の天覧消防訓練を見学し、郷土消防の参考とするため、徹夜で青梅街道を通り上京したと記録されている。

 このころの消防団員は、戸主又は長男をもって組織され、輪番制によって、火の元注意等の警戒に当たっていた。

 明治十八年(一八八五)十二月、火災によって狭山にあった円乗院の本堂、庫裡及び、高狭学校が焼失した。この事件によって、消防の組織、装備等の見直しなど、村を挙げて論議され、消防の強化策が実施された。

 明治二十六年(一八九三)四月、組合村は東京府に編入される。このころは、高木村ほか五ヶ村組合であったが、出初式、機械器具の点検、火
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の元注意等の諸行事は、すべて統一あるいは合同で行っていた。このことは、後の六ケ村合併の大きな糸口となっている。

 大正八年(一九一九)十一月、組合村を廃止して、六ケ村を合併して、大和村が誕生した。

 それと共に、消防組の組織も統合され腕用ポンプを配備するなど、その近代化が遂次進められた。

 大正十二年(一九二三)の関東大震災の時は、第二次火災の防止や人心の動揺防止等に務めた。

③昭和時代

 昭和に入り、村の南部に東京瓦斯電気工場が設立され、昭和十四年(一九三九)に日立航空機と改称され、軍需工場として、航空機のエンジンの生産が開始された。それによって、従業員の住宅が増加したため、この地域に一個分団を設けた。

 昭和十四年一月、勅令第二十号により、消防組を警防団と改め、警防団長他、七階級を定め、戦時中は防火・防災・警防
に活躍した。

 昭和二十二年(一九四七)四月、勅令第一八五号により、消防団令が公布され、同年十一月、指令第=二九五号をもって、
警防団を消防団と改めた。

 新体制は、八個分団定数四八〇名である。

 その後、昭和二十九年(一九五四)四月町制施行により、大和村消防団を大和町消防団と改称し、組織を七分団とし、定数を二四八名とした。
 昭和三十三年(一九五八)から、三十五年にわたって、町の発展に即応した消防体制を確立するため、老朽自動車を廃止し、新車に改め、車庫兼詰所を設置した。

 これと同時に、消防団員の服制に基づき、制服を乙種(ハッピ)から甲種に替えるなど、物心両面からの消防力の充実強化を図った。

 昭和四十五年(一九七〇)十月一日、市制施行により、大和町消防団を、東大和市消防団に改め、昭和五十二年(一九七七)四月、日、東大和市消防団条例の一部を改正し、組織を七個分団とし団員の定数を一八九名とし、少数精鋭をはかり今日に至っている。

 この間、自治省消防長官表彰旗、東京都消防操法大会入賞等をはじめとし、各種の受賞は、三十回以上におよんでいる。
団員は、地域消防の担い手として日夜訓練に励み、一朝有事に備えている。
現在の消防団が保有する機械装備等の状況は、本部指揮車一台・消防ポンプ車七台・防災行政無線十四台・トランシーバー十七組のほかに、山林火災や震災対策として、可搬式消防ポンプ七台が配備されている。