板碑から見える東大和市の中世

板碑から見える東大和市の中世

東大和市で把握している板碑
最古 永仁二年(1294)    
最新 天文11年(1542)
年代の明確な板碑 73枚
年代の不明確な板碑 33枚
 合計     106枚
 その他    数枚

鎌倉時代末から室町時代に到る250年間にわたって造立された。

三光院
 創建伝承 『新編武蔵風土記稿』「開山は圓長と云、天永三(1112)壬辰五月三日寂す」
 寺伝 開山となった快光法印は延文二年(1357)六月一日に入寂。
    開基の石井美作が延文四年(1359)に没。
円乗院
 創建伝承 開山賢誉法印が平治元年(1159)2月8日寂。その墓誌が円乗院代々住職の墓所にあり。
雲性寺
 後世の地誌類、寺伝などによれば、永享11年(1439)に堂宇を建設
 天正元年(1573)に法印承永が再興
 元禄年間(1688~1703)に地頭石川太郎右衛門が新伽藍を整備。
蓮花寺
 寛永八年(1631)4月12日入寂した承雲を中興開祖とするが、当寺の草創・開山、開基は不詳である。
慶性院
 開基 羕尊上人が遷化された天文16年(1547)を開基の起点
 開山 羕秀上人が遷化された慶長6年(1601)を開山の起点とする。

 種子についてみると、これが刻されている板碑はすべて阿彌陀あるいは阿彌陀三尊の種子を刻している。また梵字の光
明真言や「南無阿彌陀佛」と念佛を刻したものもある。このようなことから、これらの板碑がいずれも阿彌陀信仰に関係
をもつものであることは明らかである。而して、これが大和町に存在する板碑のひとつの特色となっているといえる。

 板碑の分布状態は中世集落と密接な関係をもっている。ふつう板碑を建てる場合、建碑者は自己の生活している集落あ
るいはその近辺にこれを建てたらしい。そうだとすれば、板碑の分布状態から中世集落のそれを導きだすこともできるわ
けで、この意味で、板碑は歴史地理研究にも有力な資料となりうるのである。板碑を建てたひとびとは、おそらく一般庶
民ー主として農民ーではなく、支配階級のひとびとであったであろう。

 鎌倉時代末葉から南北朝の動乱期、さらに室町時代にかけて、この狭山丘陵一帯の地域は武蔵七党の流れをくむ村山氏
一族ー村山党ーの支配下にあった。村山氏は桓武平氏を称し、平忠常の孫、野与基永の弟にあたる村山貫主頼任を祖
とするとつたえられている。この村山氏に、大井、宮寺、金子、山口、須黒、横山、仙波、荒波田、難波田、久米、広屋
などの諸氏を加えた連合体が村山党である。村山氏一族の主要地盤は狭山丘陵の北方の入間川をはさむ平原を中心として
展がっていたと考えられる。それは、現在の地名である村山をはじめ山口、金子、久米などがいずれも村山氏一族の名に
由来したものであることをみても明らかである。

 さて、大和町一帯の地域もこの村山氏一族の支配下にあったことは確実である。当時、大和町の北方、現在の所沢市山
口の地には村山氏の一族である山口氏がおったが、これと近接する地理的関係からいまの村山貯水池をはさみ、大和町も
この山口氏の支配下にあったと推察できよう。

 この近くの所沢市岩崎にある祥雲山瑞岩寺はもと山口氏の菩提寺であったといわれ、いま、この寺には二つの
山口氏の位牌と称するものがつたえられている。その一つには、

本願信阿大禅門 貞治六丁未年九月十八日
とあり、他には、
故参州大守満叟実公大禅門 永徳三癸亥年六月十三日

とそれぞれ書かれている。これらは、はたして史実をつたえるものかどうか、はなはだ疑問の多いものである。だが、前者
にみえる貞治六年(一三六七)はこの地方において何か大きな歴史的な動きのあった年のように考えられる。それは清水・大
久保平治氏蔵になる二枚の板碑にもこの紀年があることが注意されるからである。すなわち、現在は奈良橋・内野五平氏
の手に帰しているが最近まで大久保氏のもとにあった「貞治六年丁未六月二日、逆修、明法禅門」とある板碑(19)と、
「貞治六年丁未十月日、逆修」とある板碑(10)である。貞治六年ごろといえば南北朝の動乱が各地でかさねられてい
たときにあたる。この動乱に山口氏が参加したろうことは容易に想像できる。

 このような史実があったと考えて、大久保氏蔵の二枚の板碑をみると、貞治六年の戦いに山口高清とともに参加した村山一族おそらく山口氏の某が出陣を前に万一の事態を考慮し死後の極楽往生を念じつつ逆修供養をおこない上記の板碑を建てたということもあながち想像にだけおわらすことのできない真実性を帯びてくるように思われる。

 このように考えてわれわれは大和町所在の板碑はそのほとんどが山口氏に関係するものと推察したいのである。しかしながら、山口氏、さらに村山氏一族の動勢をつたえる信頼のおける史料はなく、きわめて断片的な史料によってそれを類推しているにすぎず、その実体が不明であることから、これ以上深く考察を加えることが困難である。