板碑の集中埋納例

板碑の集中埋納例

武蔵村山市阿弥陀が峯

中藤三丁目(字入り)の北側の丘陵の一部に阿弥陀が峯と呼ばれる場所がある。この山麓の雑木林のなかに、永仁年間の板碑がしめ縄を張った状態で祀られている。かつてはそのまわりに康安、貞治、嘉吉等の年号をもつ合計一八基の板碑及びその断片が、落ち葉に埋もれて存在していた。武蔵村山市内における中世の板碑群としては、これが最大規模のものである(『武蔵村山市の板碑』参照)。
(武蔵村山市史通史編上p342)康安1361~62 貞治1362~1368 嘉吉 1441~1444



立川市普済寺

多摩のあゆみ118p75

文永12年1275 応安元年(一三六八)、応永二五年(一四一八)

周知のように普済寺には、境内北方の首塚(第3図★)付近から明治期に一括出土したと伝えられる六三枚の板碑群が所蔵されている。そのうち紀年銘の判読可能な五六枚中五四枚が、文和二年(一三五三)と伝えられる普済寺の開創よりも古いのである。

この知見を前提に第7図を観察すると、確かに板碑群の一括出土地点に近い調査区北寄りで分布密度が濃くなる傾向が窺える。普済寺所蔵の板碑群と今回出土した板碑片は、もともとは居館構築以前に造立されていた一連のものと考えて不都合はない。

そして居館構築以前の当地がいかなる性格の場所であったかを示唆する情報がある。現存の首塚がもともと蔵骨器に納められた人骨や五輪塔の出土をきっかけに幕末に構築された事実が、鈴木平九郎による『公私日記』の嘉永二年(一八四九)四月および六年四月の記事に見出せる。『日記』に書かれた人骨検出状況や、明治期における板碑の一括出土という事実からみて、首塚付近にもともと中世墳墓群が実在した可能性は高いだろう。

この中世墳墓群の存続時期は、板碑群の造立年代(最古は文永一二年)の中心、すなわち一三世紀末葉から一四世紀前半に併行すると素直に推定するとしよう。旧説は、この造立年代に着目して、浄土宗系の信仰を行ってきた立川氏一族が、普済寺開創を契機に禅宗に転じ、信仰上の理由から既存の板碑を一括埋納したものと解釈した。

だが発見された板碑には、普済寺開創よりも新しい応安元年(一三六八)、応永二五年(一四一八)の年紀を有する二枚が含まれてもいる。板碑群と立川氏との関係はさておき、六三枚の板碑の一括埋納説を支持するのであれば、その埋納時期の上限は、応永二五年とするのが資料論的原則である。

そこで板碑群の埋納時期の上限を応永二五年に改めたらどうだろう。すると居館の成立時期である一五世紀前半に奇しくも一致し、普済寺所蔵板碑の一括埋納が、居館の構築を契機に行われたと推定できるようになる。

その時、埋納から落ちこぼれた断碑も少なからず存在し、それらが後の土地利用によって撹乱され次第に小片化して、その最終状況が板碑片分布として現れたのであろう。中世後期の生活遺構である地下式坑や井戸から出土した板碑片は、たまたまその埋没過程で土砂とともに流入・廃棄されたものと考えられる。

これまでの記述を要約すると、一三世紀末葉~一四世紀前半の板碑群をともなう墓域的景観があり、大型ピットが構築されるだけの土地利用の停滞期を挟み、墓域を一掃する居館への転換が一五世紀前半を年代的上限に行われたと整理できる。つまり伝立川氏館跡における中世の土地利用景観は、大筋
で、宗教的空間=墓域(一三世紀末~一五世紀初頭)から日常生活空間=居館(一五世紀前半~一六世紀前半)へと変遷したと結論づけられる。

墓域から居館へという転換については、すでに中世城郭・要害が、寺院や神社の境内などを意識的に占拠する場合が多く、占拠した空間を一種の聖域とする意図が読みとれると言われている。本例は寺院の境内が占拠されたケースではなかったけれども、当地が『江戸名所図会巻三』でも富士山を眺
望できる景勝地に描かれていたことを思い出しておきたい。中世の地域霊場(=中世墳墓群)が立地する場所として相応しく、まさに聖域と居館が一致した事例と言えるであろう。