桜街道

桜街道

2011年7月23日
14:34

天保11年麁絵図では「青梅より江戸街道」とされる

㊥桜街道

 桜街道は、その名の由来のとおり、かつて桜の木が道の中心に植えられて、花見時は大変見事であった。花見のころには学校の遠足で来たこともあるという人もいる。西武拝島線東大和市駅ロータリーに添って青梅街道から左折する道をいう。五間~六間余(九ー十一㍍程)の幅広い道は、徳川家康が江戸入府の後、江戸城修築に用いる石灰を、青梅の上成木、北小曽木辺から運搬するために作られた街道で、行政道路として開発されたといわれている。

 成木・藤橋・箱根ヶ崎・残堀・小川・田無・荻窪・中野・内藤新宿の道筋である。初めは成木街道ともいったが、青梅に向う道を青梅街道、江戸への道を江戸街道と呼んでいたようだ。

 武蔵野の原野は水に恵まれず、旅人にとっては大変難儀な道であった。承応三年(一六五四)に玉川上水が完成、その後野火止用水を分水する等、ようやく水の確保が整ったころ、岸村の小川九郎兵衛が、農業と共に伝馬の継立を目的とした新田の開拓を行なった。小平市小川町である。識見高い九郎兵衛は、伝馬の往来に相応した道幅を取り、街道を挾んで家並を作った。桜街道も小川に準じた道幅を取っている。

 元禄期には石灰の運搬を川越の新河岸川からの舟運に変えたので、伝馬の仕事は縮小するが、甲州の裏街道として、また、青梅の産物を運ぶ等、江戸への道としては重要な道筋であった。武州御嶽神社へ参拝する講中の歩いた道でもある。『御嶽管笠』に当時の野火止用水にかかる青梅橋のようすが描かれている。

 「参勤交替の大名行列が通るので、江戸街道の道普請をやった」という伝承が蔵敷に残っている。砂利穴を掘ってその砂利を補修に使ったという。

 安政二年十月二日、江戸大地震の際、羽村の玉川上水の堰が破損、その修復成った堰を見分するため、幕府の老中、阿部伊勢守、久世大和守、内藤紀伊守他若年寄、各奉行、大御目付、奥祐筆等、お供の士、中間を含め二六四人の他に通行の人五〇〇人、馬九拾疋の大行列が、青梅街道を羽村まで行ったことが参勤交替という話として伝わっていた。

 『里正日誌』に詳細に記載されているが、「今度の如き大通行、未曾有之事に候」と認(したため)めている。確かに最大のできごとであったに違いない。暁八ツ刻(二時)内藤新宿出馬、田無村で朝飯、五ツ刻(八時)小川村名主九郎兵衛方にて少休、四ツ刻(十時)羽村着。多摩川では鮎漁を楽しんでいる。後ヶ谷村の名主杉本平重郎および、蔵敷村名主内野杢左衛門等が、小川家に参集し、接待に勤めている。(里正日誌7 p186)

 桜の木は明治十四年ごろ、当時の青年達で苗木を植えたという。この時には小さな小屋を作り、桜番といった。

 旅人のために、明治二十七、八年ごろ、桜街道と芋窪街道の交差する辺に小屋を建て茶店を出した。其の後付近に百尺(約二八〇㍍)程の井戸を掘ったという。この茶店が泥棒に襲われたり、また、商人等が追剥(おいはぎ)に合ったりしたこともある。何しろ背丈程の茅や芝草が茂り、荷車の轍(わだち)の跡を中心に人の踏跡が白く残る道だった。

 広かった道も、端を払下げ、農家は畑に使ったが雑草が畑に入り込むので溝を掘ったり、草を燃したりした。

 桜は、昭和二十年四月二十四日、米軍機に爆撃されて、街道添いの日立航空機と共にほとんど全滅してしまった。残った桜も雑草を燃す火にすっかり弱り枯れてしまった。現在は(株)ゼノアの敷地内に幾株か残っている。芋窪街道にモノレールの桜街道駅もでき、それに合せて桜街道も整備され、新しい道路になった。(東大和市史資料編9道と地名と人のくらしp27~28)