武州村山大変次第のこと
ここに武蔵国多摩郡玉川つきの村方に羽村というとこ
ろあり。ここはそのむかしより東都にて御持用なさる
御用水の堰場とかや。出水にて堰切れ候時は、御公儀
様より重き御役人御出役遊ばされ、ここに御普請は金
銀財宝竹木をもって堰き留め、一日片時も懈怠(けたい)なく御
用水堰へせき入るるところなり。またちかごろ仙川御
上水とて、これも同樋口より水を引き入れしとかや。
しかれば水御奉行陣屋としてニカ所に立て置くところ
なり。ここに村方名主羽助太郎右衛門組頭伝兵衛とい
う者、右三人会合して、同じ面々いかに思いたもうや、
せんだって御公儀様より仰せ触れられ候通り市場町場
在々の売買人
御上の仰せも恐れず、占売して諸人の難を引き出せり。
いかにしてこの難を救わんや。しかれども、御上様へ
御訴訟も路用に差し詰り難儀なり。時に伝兵衛申すよ
うは、しからば、我ら老衰の身七十余りに及び候えば、
もはや今生に生きすぎたり。我々頭取(とうどり)して諸人の難儀
を助けんといえば、羽助申すは、しからば村々へ人集め
の書付け捨て置き、買〆めの者ども打潰し候わん、と
て太郎右衛門筆を取って文言の下書きを作りこれを出
す。しかれば、筆工を集めて書せんと、かの仙川御上
水陣屋においてこれを書せける。その筆取りには太郎
右衛門、源右衛門、要八、勘七、勘左衛門、政五郎な
どとそ聞えし。いよいよ張紙出来しければ、左の者こ
れを張り廻る村数三十七力村と聞し。仙川上水陣屋に
おいて会合の者どもには、名主羽助、同太郎右衛門、
組頭伝兵衛、筆工源右衛門、要八、勘左衛門、政五郎、
勘七、
137~139
札張りには惣七、半七などいう。ほかに四五人辰の二
月二十六日の夜、一夜のうちに張り廻る。知る人一人
もなし。それおよそ天の悪しきところ、天必ず誅罰(ちゆうばつ)す
ということ、平家大将平相国清盛入道の教えなり。善
事は仕出しがたし。悪事は仕出しやすしとかや。ここ
に天明四年甲辰仲春下旬にいたりて騒動することは、
去る癸卯年、関東八力国出羽奥州までの国々外国にい
たるまで田畑諸作山海の万物みな水損となりて田夫野
人渡世残らずみな損ありし。しかれば、上(かみ)は天上より
下(しも)万民にいたるまで、去る卯冬中より当辰初春末春ま
での愁いとなって米穀雑穀高値よりこと起り、餓死に
及ぶ者多きがゆえ、その領主に願い出るといえども、
領主地頭代官の力に及ぼず、下々の雑穀麦作までの手
当に残し置き、多分、時の相場をもって売捌(さば)き申すべ
き旨、再
応、仰せ触れられ、その上少々宛扶食御拝借下し置か
れ候といえども、露命つなぎがたく、落命の者多し。
時に武州多摩郡入間郡いたって騒がしきことは、去る
二十六日夜、何者とも知れず村々御高札場村役人の宅
前など張紙致し置きたる次第、都合両郡にて四十力村
余りと聞し。その張紙の丈言に曰く
口上
一去る卯年関八州ならびに出羽奥州まで去る夏秋両毛不
作につき、米穀ならびに雑穀など高直にあいなり、右
国々百姓ども大困窮つかまつり候旨、御上へ御聞き及
ばれ、このたび御回状をもって仰せ触れられ候は、一
村限り村役人立ち会い、小前百姓の雑穀をあい改め、
家内人数引き合わせ、当夏作出来候までの手当に残し
置き、その余りの分はその村最寄り市場町場などへ差
出し、売捌き申すべき旨仰せ触れられ候ところ、右御
触をも恐れず
一141~143一
この近在有徳の者ども、寄り合い相談致し、市場町場
は勿論、小前までの雑穀を買い留め置き、占め売りい
たし候者ども、近辺にこれあり、大勢の難儀を顧みず
はなはだ不法の仕方、よってご相談申す儀これあり候
あいだ、来る二十八日暮六っ時より五つ時までに箱根
ケ崎村池尻(いけじリ)へ高百石につき、二十人ほどずつの積りを
もって村々一同お出会いなされ候。もしお出会いこれ
なき御村方へは大勢押し寄せ理不尽なる儀もこれある
べくあいだ、よくよくこの段、御心得なされ、右刻限
間違いこれなくお出会いなさるべく候、以上。
辰二月 困窮の村々
御名主
御年寄中
惣百姓
右の通り書き付けござ候あいだ、今日左の村々相談致
し御代
官所へ惣代をもって早速ご注進申し上げたてまつり
候。もっとも箱根ケ崎の儀、昨二十七日御訴罷り出で
申し候。よって左の村御訴の覚書などは記さず、すで
に箱根ケ崎村狭山の池へ会合とのことゆえ、宿村たる
のあいだ、早速伊奈半左衛門殿御役所へこ注進申し上
げ、かつまた外村にてもおもいおもいにご注進申し上
げたてまつり候ところ、いよいよ二十八日の夜九つの
鐘相図に松竹の印まつ、たけの高提灯先に立て都合そ
の勢二三万人、我も我もとかの池尻へ会合す。口々よ
り寄せ来る人声同音に野山も崩るるばかりなり。寄手
の中に頭取もなく、いずれという評儀もなし。時の声
も静まりて、さて老人の声にていずれへなりともここ
ろざす方へ趣き候ようにと下知すれども、その挨拶す
るものなし。しかるに箱根ケ崎三社権現の御山頂の峰
において、原山才次郎という声に小音にていう者あり。
今、ひと言と所
145~147
望すれば返答なし。時刻延引に及ぶところにまた老人
の声にて山王前という声あり。この時、四五百人、口
を揃えて、山王前(さんのうまえ)、山王前と二三返(ぺん)、いうやいなや、
さてこの時は名に負う武蔵野に続いたる箱根狭山の池
と申すは、方角北西南の方、野山多く、東一方は高山な
り。二十丁四方の芝地には見物の貴賎幾千万という数
知らず、みな同音に、山王前山王前とそ呼ばわりける。
これを物に譬(たと)えれば、元弘のころ相模守平高時と新田
左中将義貞と久米川入間川の陣に違うことなし。狭山
の池より山王前まで道法二里のあいだの里民、妻子老
少を携え、山野に諸道具を隠し逃げ隠るる者多し。女
童子の泣声、天地も崩るるばかりなり。寄せ来る人数、
先陣すでに番場横田村にいたれば、後陣はまた石畑箱
根ケ崎にひかえたり。馳せ違う提灯松明は
夏の露すう螢火のごとし。先陣に進みたる若者ども、
二三百人、斧にかけや、鋸、鋤鍬(すきくわ)、えものえものをて
んでんに持ち、寄らば打たん、そのありさま、百姓軍
といいつべし。中藤村萩の尾というところに、百姓文
右衛門という者あり。この者占売致し候や、この家を
めがけ、かの同勢、表門長屋の前にて枯木茅草などに
火を焚きつけ、時の声を上げにける。さてまたこの方
も時を合わせ鉄砲矢砲を飛ばすといえども、寄手、眼
に余る大勢なれば、力及ばず、みな散り散りに逃げ失
せける。表裏長屋木戸かけやをもって打ち破る。それ
より物置、木部屋、油屋、穀蔵、金蔵、居宅、雪隠(せつちん)
長屋などにいたるまで打ち荒らし、戸障子雨戸はかの
かがり火へなげ込めば、猛火盛んに燃え上り、ただ白
昼のごとくなり。金銀をちりばめたる鍋釜諸道具打ち
破り、敷居、鴨居はなた、鋸をもって切り荒ら
149~151
し微塵になして捨てたりける。さてまたここに山釣五
右衛門、その身有徳(うとく)富有にはあらざれども、文右衛門
一家ゆえ、質物残らずこのところへ隠し、ある者これ
を見つけこの家を次手に打潰せと隠し置きたる質物残
らず焼き捨てよと下知すれば、以上七ヵ所に隠し置き
たる雑物、質物に火燃えつき、一つも残らず焼き捨て
たり。ここに内野佐兵衛とて高四百石余り支配の名主
あり。この者、発明なるゆえ、いかに悪(にく)しみをうけた
りけん、この者宅も打散らし、夜すでに明け方にいた
り、この暁きに高木村庄兵衛方へ急ぎ行き、米穀、雑
穀、莚(むしろ)俵叺(かます)入り、みな広庭に持ち出し、俵叺切り散ら
し、雑穀、微塵にするのみならず、油、酢、醤油持ち
出し、かの広庭にてたが切れば、油は流れ出でて玉川
のごとし。雑穀は出水の砂のごとし。このところにて
も以上三ヵ所にて質物を焼き捨て、最早明くれば、二
月二十九日朝巳ノ刻にいたりければ、いずくにまで立
退き候とも、その行方知れず、みな散り散りに帰りけ
り。実に夢の覚めたるごとし。さて山王前丈右衛門、
山釣の五右衛門、内野佐兵衛、中藤友七、高木村庄兵
衛都合六軒切り荒れたること、無念骨髄に徹し、御公
儀様へ早速御訴え申し上げ候えぽ、御公儀様はなはだ
御驚かせたまい、何にもせよ、民百姓のかように騒動
すること、上天を恐れざる仕方、不届きにつき、御取
方のため、東都両町奉行所牧野大隅守、曲渕甲斐守殿
両御組同心衆十人宛、辰三月二日、江戸御出立遊ばさ
れ、御道中筋在女所々御伝馬御証丈など御触書き、勘
解由より添書き、左に。
覚
馬十疋 江戸より武州多摩郡入間郡まで上下これを出
すべし。これはかの地へ御用のため、牧野大隅守組同
心十人参り候につき、
153~155
中略
評に曰く、高木庄兵衛、萩ノ尾文右衛門両家にて打
ち荒らしたる俵数積りて二三千俵ほど雑穀とす。質
物はおよそ金高四五千両ほど焼き捨てたり。油百樽
余り切り流す。金銀銭は残らず、紛
失なり。打ち潰れたる諸道具は山のごとし。さてま
た盗みやすきものは金銭ならん。寄手の中に盗賊も
多きや。かようの時は実気なる仁も欲心を発するも
のなり。実に両家売留め人数ならんや、かくのごと
くの大難を引きうくることはその身に覚えあるべ
し。浮世にこれなき雑穀を沢山に積み重ね、千も二
千も持ちながら占売いたし候てかくあるべきことな
り。かつまた五右衛門ことはその身の難にあらん。
みな文右衛門由緒ゆえ、かようの曲事(くせごと)に逢うこと
は、その身の不運とやいわん。内野佐兵衛は分限大
身にもあらず、買留占売も致さず、この者かくなる
ことは、人に心実不和よりこと起るべし。ここに村
山郷三里のうち、甲州海道丸山台というところあ
り。往来の道幅広さ三十間余りあり。長さは東西に
して五十丁ほどあるべし。芝地の往来なり。右佐兵
衛、安永年中、御公儀様へ御
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願い申し上げ候て新田に願いうけ、身上宜しき者ど
もへ金子にしたがって割渡し、貧なる者には金なき
ゆえに一歩も渡さず。しかるにこの芝地は貧人の秣
草場(まぐさば)にて農業の肥にと、かのところ新田にあいなり
御上納の地となれば、秣草取ることかなわず、いよ
いよ困窮募(つの)り、この意趣をもって三里のあいだの民
百姓よき時節到来と思い、徒党の人数に紛れ入って
切り荒したるもはかりがたし。この段よくよく懸案
を廻らしたもうべし。
すでに辰三月三日桃の節句と悦び勇み楽しむところ、
当日一番、多摩郡羽村にて名主小源太、同羽助、組頭
伝兵衛、百姓次郎右衛門右四人御手入れにそれ初めと
して同村太郎右衛門、彦右衛門、源右衛門、政五郎、
要八、勘七、勘右衛門、小作にて源蔵、川崎村新六、
半七、福生新七、弥五郎、箱根ケ崎吉五郎、五右衛門、
石畑村喜太郎、殿ケ谷庄右衛門、金右衛門、残堀安五
郎、ほかに四人、原山嘉七
中藤新田庄吉、芋久保村にて十四人、七日市場喜右衛
門、今寺源五右衛門、平八、二本木新蔵、高根権助、
寺竹政平、青梅喜八を初めとしてそのほか二本木三ケ
嶋北野すべて六十三人、怪しげなる旅籠に乗り、網の
なかの魚、籠のなかの鳥のごとく、囚人となって東都
へこそは引かれけり。右のうち御宥免これある者ども
には、羽村小源太、源蔵、彦右衛門、川崎新六、半七、
殿ケ谷庄右衛門、二本木藤五郎、高根林平、福生新七、
弥五郎、砂の喜太郎、そのほか右一件落着まで村方へ
御預けとなる。
一説に曰く、六十三人囚人ども、御吟味中、病死の
者多し。この節、南御番所牧野大隅守殿、御役替え
遊ばされ、大御目付なされられ候あいだ、御吟味延
引す。しかるに牧野殿、まもなく御切腹という。か
つまた囚人の面々もおのれおのれ大禄の住家を持ち
ながら、この騒動に組するめんめん天四討とや
いわん。品川松右衛門土手の善七などが宅を臨終の
床として一生をおわんぬこと、ああ悲しゃ。
右武州村山騒動一件の儀は、両町奉行曲渕殿、山村殿
両御守の御吟味落着などは追罰し軽重によって御仕置
仰せつけらるべく候。この節、青梅村のうちにて生国
同州多摩郡宇な沢村喜八という者、筋書きを認め村々
へ廻しけり。この段露顕によってこの者同様に囚人と
なる。かつまた御先手衆は村山引払いの時分、北武州
小川町寄居辺にもかようなる騒動ありて、それより早
速御越し遊ばされ候。これもよほど罪人ありといえり。
落着何とも知れず、云々。
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