衆楽会と新聞購読社(武蔵村山市史下)
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黒船来航、それにともなう横浜開港、戊辰戦争、そして文明開化の潮流、さらに新しい政治制度がつぎつぎと施行されるなど、幕末から文明開化期の日本は大きく変化しようとしていた。それは、全国
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いたるところに影響を及ぼしたが、市域の村むらも例外ではなかった。地域秩序は動揺しており、その回復が村役人などを勤めてきた豪農層にとって急務となっていた。
一方、横浜開港は、多摩地域に政治思想、経済思想から生活文化に至るまで、さまざまな新しい情報を、人を介して、また新聞や書籍などによってもたらした。彼らは、地域秩序回復のために、この新たな政治や法律の情報・知識を取り入れようとした。そして、演説や討論を重ねながら知識の向上などを目指す結社をつくりはじめる。しかし残念ながら、市域では自由民権運動で主導的役割を果たした人物の史料が散逸しており、近隣に残る史料や当時の新聞から推測していくという手段を採らざるをえない。
明治一一年(一八七八)一月一七日、芋久保村(東大和市)で学習結社「衆楽会」が誕生した。愛染院に仮本部が置かれ、会長には昇隆学校訓導の江口栄雲、幹事には内野杢左衛門・石井権左衛門が着任し、この日の開講式には昇隆学校の生徒も訓導に率いられて参加していた(『東大和市史資料編10近代を生きた人びと』)。衆楽会開講式の様子を伝える史料(東大和市内野秀治家文書)には、この衆楽会結成の意図が明確に記されている。
明治十一年一月十七日(木曜日)、郷党ノ学士自治ノ道ヲ知ラント欲シ、相与二之ヲ訥リ衆楽会ヲ設為シ、連月一回若シク(ハ脱力)二回ヲ期シ各自集会シテ切磋琢磨シテ、或ハ文ヲ講シ書ヲ評シ、或ハ余時ニ詩歌ヲ詠ス、蓋シ此会ノ号アル所以ナリ
衆楽会は、このように「自治ノ道ヲ知」りたいという欲求から生まれた学習結社だった。明治一〇年代にはいると、多摩地域でも各地でさまざまな目的を持った結社が生まれるが、自由民権運動につながる可能性を持った学習結社としては、この衆楽会が、現在確認されているなかで最も早い時期に生まれた結社である。この結社が、その後どのような活動を展開していったのかを明らかにする史料は発見されていないが、多摩地域における「結社の時代」の幕開けを告げた結社の一つということができよう。
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衆楽会開講式の日から約三年たった明治一四年(一八八一)一月一日、蔵敷村(東大和市)で、「新聞購読社」が結成された。社長内野杢左衛門を含めて八人からなる、小規模な結社である。この新聞購読社は、その名のとおり、新聞や雑誌を購入回覧し、親睦会を開いて意見交換をするという活動スタイルの結社だった。明治初年から、全国各地に新聞閲覧施設として新聞縦覧所が設けられたが、この結社も同じような地域の要求から結成されたのだろう。
結成当初に購入していたのは『曙新聞』『読売新聞』で、『驥尾団子』『人情雑誌』『面白奇聞』の時期を経て、九月からは『朝野新聞』、翌年には『東京横浜毎日新聞』と、社員の要望に応じてさまざまな新聞・雑誌を購入して回覧していた(『東大和市史』)。『朝野新聞』『東京横浜毎日新聞』は、ともに民権派の政論新聞であり、この結社が急激に政治的関心を強めていったのではないか、という推測もできる。途中脱会者が出て社員は六人に減るが、新聞・雑誌により内外の最新情報を吸収しようとする熱意が、学習結社を誕生させ、その社員は次第に政治的関心を強めていったといえよう。
この両結社の中心人物だった内野杢左衛門は、早くから高い政治的関心を持つ人物だったようである。彼は明治八年の地方官会議を傍聴し、全国の政治動向に強い関心を持っていたし、県会開設当初から県会議員を務め、他の府県会や政治に関連する裁判などについても覚書に書き留めている。さらに、明治一三年に浅草井生村楼で開かれた演説会に参加し、自らも卓上演説を行っている(『東大和市史』)。このように、彼の高い政治意識と行動力に誘導されるように、市域近隣の村むらは自由民権運動への一歩を踏み出すことになったのである。
自治改進党の結成
内野は、その年の一一月、野崎村(三鷹市)の吉野泰三とともに、第二回国会期成同盟大会に参加するため上京し、自由党結成の会議に参画している。彼らは第一期からの県会議員仲問でもあり、この後もともに行動することとなる。
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この過程については、内野の覚書によって知ることができる。それによると、二人の参加が実際に確認できるのは、一二月一二日築地寿美屋で開かれた会合からである。第二回国会期成同盟大会は一一月一〇日より開かれていたから、一月ほど遅い参加ということになるが、それには理由があった。
一二月五日に、府中高安寺での武蔵六郡懇親会と称名寺での勧業教育演説会が予定されていたのである。それまで多摩地域では、めだった演説会活動が確認されていないことから考えると、この二つの懇親会・演説会は多摩地域、武蔵六郡の自由民権運動の高揚と団結とを目論んだものだったはずである。
武蔵六郡懇親会には吉野泰三・石坂昌孝・本田定年・七屋勘兵衛・佐藤貞幹ら一五〇余名が参加し、称名寺での演説会には、肥塚龍・野村本之助が弁士として招聘され、吉野・石坂・佐藤・中村克昌ら三〇〇余名が参加したと報じられている。内野の参加は確認できていないが、彼が武蔵六郡懇親会に出席していないとは考えにくいし、称名寺での演説会の広告チラシが内野秀治家に残されていることを考えれば、おそらく両方に参加していたと考えてよいだろう。
この懇親会・演説会が成功に終わったところで、参加者たちは、弁士として招聘した肥塚・野村の二人から中央(国会期成同盟)の動向を聞かされたはずである。これにより、内野と吉野は個人の意志なのか、懇親会での代表者としてなのか定かではないが、急きょ上京することとなった。そのため、彼らが上京するのは、一二月一○日前後になったと考えられる。
その一○日、河野広中らは八か条の「自由改進党盟約」を起草、翌一一日これを五か条に修正した。内野秀治家には、覚書のほかに、罫紙一枚に書き写されたこの五か条の「自由改進党盟約」が残されている。
自由改進党盟約
第壱
我党ハ人民ノ自由権利ヲ拡張スル主義ヲ以テ相合ス、故ニ此主義ハ我党ノ心紬ニシテ終始変スルコトナカルヘシ
第二
我党ハ此主義ニ依リテ国政上ノ改良ヲ謀リ、国家ノ康福ヲ増進スルコトヲ務ムヘシ
第三
我党ハ和合.致シテ利害憂楽ヲ共ニスルモノトス
第四
我党ハ我主義ヲ達スルニ便ナルカ為メ、便宜ノ地ニ中央部ヲ設ケ、各地方ニ方部ヲ定ムヘシ
第五
我党ハ我主義ヲ達スル為メニ適宜ノ事業ヲ為スヘシ
明治十三年十二月十一日 (東大和市・内野秀治家文書)
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この「自由改進党盟約」については、自由党準備段階のものとする説(江村栄一『自由民権革命の研究』)と自治改進党の規則草案とする説(『東大和市史資料編10近代を生きた人びと』)とがあるが、このような自由党結成準備の過程から考えると、前者が正しいようである。一二日にこの盟約についての会議がもたれた。この会議に出席したのは一二人、内野と吉野のほかには、内藤魯一・後藤象二郎・林包明・森脇直樹・長崎岩二郎・松田正久・草間時福・吉田次郎・野村本之助・植木枝盛である。そしてその後に二五人がこの盟約書に調印がなされた。しかし、そこには吉野の名はなく、内野の名前だけが記されている。なぜ吉野の名がないのかを明らかにする史料は発見されていないが、翌年一月五日に府中松本楼での北多摩郡懇親会が予定されていたため、一足先に帰郷していたのかもしれない。
この明治一四年(一八八一)一月五日は、北多摩郡の自由民権運動にとって最も画期となった日といっても過言ではない。本田定年・中村克昌・吉野泰三・中島治郎右衛門・比留間雄亮・横川規一らの呼びかけで、府中駅松本楼に当日集まったのは約一〇〇人。その懇親会場で、彼ら発起人から「自治改進党」を組織することが提案され、その場で盟約が起草された。
さらに一五日、府中高安寺に再度懇親会がもたれ、その場で総則・社則・議則からなる自治改進党の規則が作成された(『一二多摩自由民権史料集』上巻)。内野秀治家に残る作成会議中に書かれたと思われる墨筆の規則から、当日吉野泰三が仮議長、比留間雄亮・本田定年・中村克昌の三人が書記となって議事を進行したことなどが確認できる。
また、条文の各所に「自由改進党盟約」の影響を確認することができ、自治改進党が、自由党結成への動きに強い影響を受けて結成された結社であることは間違いない。さらに「自由」を「自治」に改めていることも見逃せない。つまり、自治改進党は、北多摩郡全域をまとめ、地域秩序の形成や地方自治の確立をめざす北多摩郡の有志によって、自由党結成準備と密接な関係をもって生まれた政治結社といえよう。
こうして決議された自治改進党の規則は、党員一四四人の名とともに小冊子に印刷された。そこからは、市域から増尾惣左衛門(三ツ木村)・渡辺市太郎(中藤村)・福井庫之助(岸村)・波多野彦右衛門(横田村)の四人の参加が確認できる。各村一人ずつということから、各村総代として参加したとも考えられるが、詳細は不明である。自治改進党が府中駅を基点に活動を進めたこともあり、この四人は党を主導する立場にはいなかったようだが、その後何度か開かれる府中や小金井での自治改進党主催の演説会・懇親会には、市域からの参加者もいたと考えてよいだろう。
中和会の結成
自治改進党結成の直後、青梅街道沿道村の有志によって結社設立の計画が進められた。自治改進党が北多摩郡全体を範囲としていながらも、甲州街道沿道村有志を中心に結成された結社であったのに対し、中和会は青梅街道沿道村による結社ともいえよう。
この中和会については、内野秀治家に所蔵される「同盟仮合議書」「発起同盟議決書」(「資料編近代・現代』一一九・一二一)が知られていたが、最近になって「同盟仮合議書」の草案三点(『資料編近代・現代』一一六~一一八、以下「資料編近代・現代』に合わせ(1)~(3)とする)が同家から新たに発見された。これにより、『東京横浜毎日新聞』の雑報欄に散見される中和会に関する記事(『資料編近代・現代』一二〇・一二二)を合わせると、規則制定過程からその後の活動まで、中和会の輪郭が明らかになったといえる。
明治一四年二月.五日、小川弥治郎・内野杢左衛門・小鍋正義・宮鍋庄兵衛・小嶋龍叔らの呼びかけにより、小川村(小平市)の小川寺で懇親会が開かれた。参会は六〇人で、嚶鳴社員草間時福と東京横浜毎日新聞社員竹内正志が弁士として招聘されていた。この場で中和会が結成され、規則(「同盟仮合議書」)が編まれた。その規則の草案によると、当初「責善会」という名称が候補となっていたことがわかる。この草案の作成順序は、「同盟仮合議書」に近づいていく順に推測するしかないのだが、錯綜しており判断することは困難である。例えば、名称を見れば「責善会」の名称が「中和会」に訂正された草案(二)が最初のものと考えられるが、演説・討論についての条文では、(一)よりも(二)
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が「同盟仮合議書」どおりの条文となっている。そのため、ここでは、この規則制定過程でどのような議論がされたのか、を見てみよう。
まず、会の目的であるが、「正理公道ニ基キ、民人ノ幸福ヲ享受」することを目的とする(一)、「人民ノ自由拡充」と権利の伸張を目的とする(二)、が検討された後、「天賦ノ自由ヲ保護シ、人生ノ幸福ヲ増益」することとされた。
この目的にも「自由改進党盟約」の影響を色濃く見ることができる。つぎに活動として挙げられているのが、演説討論会と公布類や雑誌・新聞などの購読会である。(一)によると、演説討論会の開催目的は「立志ノ実力ヲ養成」するためとされているが、「同盟仮合議書」からはその目的が抹消されている。会の目的を実現するための具体的活動が、演説討論会なのであれば、改めて別に目的を示す必要はないという判断だったのだろう。公布類、雑誌・新聞などの購読会は、まさに「新聞購読社」の活動をほぼそのまま導入した意見だが、これも結局は採用されなかった。
比較的広範囲な結社にはそぐわない活動方法だったため、そのような判断がなされたのかもしれない。そのほかにも、人事面での議論などさまざまな意見が出された様子が、各草案の何度も繰り返された訂正の跡から読みとることができる。この議論の結果が「同盟仮合議書」だった。
しかし、この中和会の活動は開始直後から難航したようである。内野杢左衛門の書簡草稿(『資料編近代・現代』一二一の後半)によると、第二回演説会に参加するため小川村に赴いた内野は、来場者が一人だけで「歎念悲憤如何とも致し方なき次第」と嘆き、日を改めて有志五六名を募って三月二七日に第三回中和会演説会を中藤村真福寺で開催することに決定した。ここで始めて小川村主導から蔵敷・中藤両村主導の中和会に変化したのではないかと考えられる。このような経緯をたどった大きな原因の一つは、中和会が本部を置かずに、演説討論会の開催場所もそのたびごとに決定していくとしているように、中心となる場所が決定されていなかったことにあろう。
三月二七日、予定どおり中藤村真福寺で第三回の懇親会が開催された。これについては、『東京横浜毎日新聞』雑報欄に比較的詳細な記事が掲載されている(『資料編近代・現代』一二七)。ただし、この記事では、小川村の懇親会の場で結成された中和会とは異なる結社として報道されており、このことからも中和会がこの第三回懇親会を期に建て直しが謀られ、主導する有志者にもかなりのメンバー変更があったと考えてよいだろう。
開催に尽力した人物には、内野佐兵衛・内藤藤左衛門・斎藤靖海・川島秀之介・比留間邦之助・関田粂七郎・石井権左衛門・渡辺竹四郎・渡辺九一郎・児(小)島龍叔・川鍋八郎兵衛・宮鍋正兵衛・内野杢左衛門の一三人の名が挙げられている。このメンバーからも、市域の名望家たちが中心的役割の一端を担っていたことが理解できよう。懇親会では、来月から嚶鳴社社員を招聘して演説会を開くことが決議され、同志は一二〇人に及んだとされる。こうして、中和会の活動はようやく軌道に乗ることになる。
演説会・懇親会の開催
中和会結成後約一年の間に、市域周辺で何度か演説会が開催されていることが確認できる。一八八一(明治一四)年五月六日、芋久保村昇隆学校で学術演説会が開かれた(『資料編近代・現代』一二三・一二四)。主催者には、「渡辺(竹四郎もしくは九一郎か)・内野(杢左衛門か)・河鍋(八郎兵衛か)諸氏」とある。弁士には東京横浜毎日新聞社の竹内正志・吉岡育が招かれた。一〇〇余名の聴衆が集まった演説会は盛況に終わり、弁士二人はその後、立川の板谷元右衛門宅を訪れ、同宅で自治改進党員らと席上演説会を行っている。
それから四か月半たった九月二五日、今度は狭山村(東大和市)円乗院で懇親会が開かれた。発起人は宮鍋庄兵衛・
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鎌田喜三らで、東京横浜毎日新聞社の赤羽萬二郎が招聘された。また、五日市憲法の起草者として有名な千葉卓三郎がこの時期奈良橋村(東大和市)に滞在しており、この懇親会にも参加し、その席で演説を行った(『東大和市史資料編10近代を生きた人びと』)。この日は雨のため道路がひどくぬかるんでいたにもかかわらず、二〇〇人が参加したと報じられた(『資料編近代・現代』一二.六)。
一一月二一日には、奈良橋村奈良橋学校で村山郷一六か村有志が集まり懇親会が開かれた。この懇親会は規約を作り、今後も継続することが確認されたとあるが、(『資料編近代・現代』一二七)、この規約については確認できていない。
翌年二月一三日には西多摩郡箱根ケ崎村(瑞穂町)で懇親会が開かれ、弁士には島田三郎・草間時福の二人が招聘された。一〇〇余人の参加者が集まり、さらに夜には二〇余名で討論会が開かれた。この場で中藤村有志者の希望で翌一四日には、渡辺竹四郎宅で懇親会が開かれ、島田・草間の二人はこの場でも席上演説を行っている。参加者は急な開催だったこともあり、二〇余人と少なかったが、有意義な懇親会になったようである(『資料編近代・現代』一二八)。
五月五日には、三ツ木村高山権右衛門宅で懇親会が開かれる。弁士には、東京横浜毎日新聞社の波多野伝三郎と嚶鳴社社員の田渕昇が招聘された。内野家から発見されたこの懇親会の広告チラシ(「資料編近代・現代』一二九)は、裏に内野杢左衛門の父親が県会出席中の杢左衛門に宛てた書簡に同封されていたもので、チラシの裏には比留間邦之助から送られてきたこと、内野家からは出席しなかったことが、墨書で記されている。しかし、この日は前日からの「暴風激雨」のために道路がぬかるみ、また農繁期でもあったが、一〇〇人ほどが参加した。二人の弁士以外にも、比留間邦之助・進藤周輔・渡辺竹四郎らによる討論も行われ、盛会だったようである(『資料編近代・現代』一三〇)。
このように、市域の自由民権運動は、武蔵六郡、北多摩郡、青梅街道沿道という三重構造の地域性をもって展開した。そして、市域民権家たちの主体的な活動は、青梅街道沿道村有志者が結成した中和会で繰り広げられた。その基本的な活動スタイルは、学術演説会や懇親会などの開催だった。そこでは、嚶鳴社員などの都市民権家やジャーナリストを弁士として招聘し、彼らの優れた演説パフォーマンスを軸に演説・討論を行い、さらに酒宴へと発展することで上気昂揚がはかられた。
政談演説会ではなく、学術演説会や懇親会を開催したのは、演説会を規制する集会条例に抵触することを避けるためとも考えられなくはないが、むしろ彼らが抱えていた課題や問題を解決するために最適の方法と考えられたからでもあろう。自治改進党が、地域秩序・地方自治の確立をめざす政治的要素の強い結社だったのに対し、衆楽会・新聞購読社・中和会と続く青梅街道沿道で結成された結社は、同じ地域秩序形成のためではあるが、地域の結束と知識の向上とを大きな課題として位置づけた、学習に重きをおく結社だった。
自由党結成から一年がたったころから、吉野泰三・内野杢左衛門など北多摩郡の多くの民権家は、自由党に入党し始める。しかし、市域からは一人の自由党入党者も確認されていない。この時期に自由党に入党する民権家の家
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からしか、市域の民権家に関する史料が発見されていないという現実もあり、その後の市域民権家の運動がどのように展開しているのかは、未だ不明であり、市域の民権家が再び登場するのは、国会開設を目前に控えた明治二〇年代、石坂昌孝を中心とする自由党主流派と吉野泰三を中心とする北多摩郡正義派との対立の時期となる。今後、この数年問の空白期の史料発見が待たれる。