武蔵村山市史下

武蔵村山市史下
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義倉積穀予定高として、廃止直後の元韮山県庁へ提出したのであった(渡辺源蔵家文書「御用留」、増尾音治家文書
「辛未義倉積穀高書上帳」)。
このような多摩の諸村も、その後は「神奈川支配トナルモ韮山ヲ慕」って「依旧江川ヲ慕ヒ居ル」であったようだ。
雨間村では韮山・神奈川・品川の三県に関係して錯綜し、「村民出入アレハ三方引合トナルユへ費ニタヘス」という
事態が存在したようである(「武蔵相模両国巡察中見聞並探索書」『大隈文書』A五七〇)。

第四節大区小区制の実施
神奈川県の管轄

 鎮将府は慶応四年(一八六八)八月晦日に「神奈川十里四方」の支配を神奈川府に命じ、神奈川
府は九月四日にそのことを同地域の宿村に達した。開港場を管する神奈川府が、条約に規定され
た外国人遊歩区域内を府域とする方策である。同府はすでに、七月一二日に東が六郷川(多摩川)、西が酒匂川、南
北が}○里の範囲を神奈川警備の肥後藩の巡蓬区域としており、その一元的支配を進めていた。神奈川府は明治元年
(一八六八)九月二一日に神奈川県とあらためられたが、同県は六郷川をはさんで錯綜していた品川県との間の県域
確定に着手し、三年四月に境界へ抗打ちを実施している。

 明治四年七月一四日には廃藩置県が断行され、それまでの藩が県とあらためられた。政府の中枢を押えた大久保利
通や木戸孝允らの維新官僚は、版籍奉還実現後に藩と府県の一致を進め、さらに中央集権政策を一挙に推進するもの
として、廃藩置県を断行したのである。この結果、全国は三府三○二県となり、ついで同四年一一月に三府七二県に
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統合された。

 この三府七二県体制において、品川県は四年一一月三日に廃止された。旧品川県の多摩郡の大半が東京府に、一部
が入間・高麗・比企の三郡とともに新設の入間県に移管されている。また、韮山県も一一月一五日に廃された。同県
下の中藤村、横田村、三ツ木村、岸村などの諸村は、入間県の管轄とされた。入間県への移管については、箱根ケ崎
村名主の村山為一郎から一一月二一日付で、諸村に順達されている。もっとも、横田村、三ツ木村、岸村の入間県管
轄期間は、一か月に過ぎない。実際には一二月二〇日、箱根ケ崎・福生・羽村・砂川などの諸村とともに、韮山県か
ら神奈川県に組み入れられたのであった(「資料編近代・現代』三二・三三)。

 神奈川県は廃藩置県直後の明治四年一一月、相模国の三浦・鎌倉両郡
および武蔵国の橘樹・久良岐・都筑三郡に加えて、旧六浦藩である六浦
県支配地や諸県の飛地を併合した。また相模国・伊豆国には、旧韮山県
とそれまでの小田原・荻野山中藩領をあわせた足柄県が設置された。こ
の神奈川県は、「武州多摩郡八王子宿並同郡原町田村近傍ハ日毎不絶外
国人所用並遊歩等」で、「相州高座郡ノ儀モ右八王子等へ往返其他相模
川縁イツレモ遊歩繁キ場所」とみなしていた。遊歩地内をこれまでどお
りに警備に手慣れている神奈川県の管理にさせてもらいたいと、四年一
一月に伺書を大蔵省に提出している。神奈川県域をあらためて「十里部
内外国人遊歩ノ地」と設定。開港場と遊歩区域の取り締まりを強化しよ

うとする方向である。そして同じ三月、前述のように入聞県に移管されていた村山などの多摩郡が神奈川県とされ
た。東京府に編入されていた入間村、およびいったん足柄県とされた相模国高座郡なども、神奈川県の管轄地に加え
られたのである。翌五年八月には、神奈川県の管轄していた武蔵国多摩郡の中野村ほか三一か村が、東京府に移管さ
いぜきもりとめ
れた。このような神奈川県知事には、寺島宗則に代わって明治二年四月に宇和島藩出身の井関盛艮が任官し、四年八
むつむれみつ
月一二日には井関の後任に和歌山藩出身の陸奥宗光が知事に任じられている。いずれも、海外知識の豊富な人材で、
陸奥は同年一一月に県令となった。

区・番組制の設置

 廃藩置県と府県の統廃合に先き立つ明治四年(一八七一)四月四
日、政府は戸籍法を公布し、その施行を翌五年二月一日
からと命じた。同法では土地の便宜にしたがって町村を
まとめた戸籍区を設け、区ごとに戸籍事務を担当する戸
長と副戸長を置くことを定めている。江戸時代以来の武
士や農民の身分ごとに分かれた人別帳形式の編成をあら
ため、戸籍区内のすべての人民を居住地単位で「戸」ご
とに「編製」し、人民統治の基本台帳にしようとしたの
である。戸籍法は、その施行が明治五年の壬申の年で
あったことから、「壬申戸籍」と呼ばれた。また実名と
通称が併用されていたそれまでの慣行に対し、政府は五
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年五月に名前を一つに限るように命じている。

 このような戸籍法の公布にともない、宿町村に関する地方制度も大きくあらためられた。神奈川県内では、慶応四
年(一八六八)八月に関東取締出役が廃されていたが、法令の伝達などに利用されてきた寄場組合についても、あら
たな改革を行っている。同県は明治五年正月、旧来の寄場組合などを基準にして武蔵国四郡に六〇区、相模国三郡に
二四区の戸籍区を設けた。戸籍吏としての戸長と副戸長を置いている。村山地域では、箱根ケ崎村を中心とした一四
村が、箱根ケ崎村などと中藤・三ツ木・横田・岸の四村とに引き分かれ、五月一六日にそれまでの「惣勘定」が各村
の惣代立ち合いで実施された(渡辺源蔵家文書「御用留」)。品川県の場合は、前述のように二年一二月に寄場組合を
廃して二四に分けた番組制度を実施していたことから、この番組を戸籍上の区である二四区にあてはめていた。

 しかし、この戸籍区に関しては、明治五年四月九日の太政官布告第二七号で、それまでの各村の庄屋・名主・年
寄がすべて廃され、戸長・副戸長と改称されたことから、各村と戸籍区に二種類の戸長・副戸長が置かれることに
なった。したがって神奈川県では、各村に戸長・副戸長を置き、旧来の戸籍区の戸長・副戸長を廃している。そして、
神奈川県では、「今般名主組頭役名御廃止、村役人減員之上、戸長副人選入札ヲ以取極可申立旨被仰出之趣」として、
名主などの廃止とあわせて、これを改称した戸長・副戸長についてもその「減員」を命じた。

 多摩郡第五一区の中藤村の市郎右衛門組六三一石余の場合、それまでの名主一人、年寄一人、組頭一八人を、五年
九月に役名廃止とともに「減員」を実施している。同組は「小前一同」の「集評」にて、名主見習であった乙幡市三
郎を戸長に選出した。天保七年から三六年間にわたって同組の名主であった乙幡市郎右衛門、および年寄の加藤竹次
郎は副戸長としたのであった。同村の源蔵組四一六石余も、それまでの名主一人、年寄三人を減員している。五年九
月に名主の渡辺源蔵を戸長、年寄の内野七郎右衛門と渡辺市太郎を副戸長に選出し、それまで年寄であった田口久右
衛門を退役としていた(『資料編近代・現代』三九・四〇)。

 また、三ツ木村九六七石余の場合、旧来の江川代官領と旗本領の二給にもとついて名主二人、年寄二人、組頭一二
人となっていたが、同村はそれを戸長一人、副戸長三人に減員した。明治五年の戸長を増尾惣左衛門、六年を網代与
兵衛として、副戸長を川口孫太郎・比留間藤吉の定役とし、田代太郎左衛門と比留問作兵衛を隔年交代と割りふって
いる(増尾音治家文書「役入帳」)。減員にともなって、村内に不満を生じないようにするための苦心である。さらに
一一七石の横田村では、それまで名主一人、組頭四人であったのを、五年六月に戸長は波多野彦右衛門、副戸長は荻
野平四郎と定めたのであった(『資料編近代・現代』三七)。

 一方、神奈川県では、廃止した戸籍区の戸長・副戸長を元戸長・元副戸長と呼び、引き続き戸籍編製の事務にあた
らせた。しかし、廃された戸籍区の戸長・副戸長は、戸籍以外の区の地方行政をも担当するようになっていただけ
に、それらの継承が必要であった。そこで同県では、大蔵省が五年一〇月に「各地方ノ便宜二寄リ一区二区長一人、
小区二副区長等差置候儀ハ不苦候」と達していたことから、同年二月、区に区長・副区長を置き、実際には戸籍区
の元区長・元戸長をそれに任じている。区長・副区長に、戸籍以外の広域な一般行政をゆだねることで、従来の寄場
組合制度を廃止したのである。県→区(区長・副区長)→村(戸長・副戸長)という行政ルートを設けたのであった。

 この神奈川県では、陸奥に代わって明治五年(一八七二)七月に大江卓が権令に任じられた。大江は翌六年四月、
村費節減を理由に区画改正を実施している。この改正では県内をあらためて二〇区に区分し、それぞれの区内に、
一、二か村あるいは数か村を組み合わせて村高二〇〇〇石を目処にした番組を設けた。この区・番組制の実施で神奈
川県内には、総数一八五の番組が置かれている。村山地域は、表1ー2のように第一二区に所属し、中藤、横田、三
ツ木村がその一番組となった。岸村は、殿ケ谷村(とのがや)や箱根ケ崎村などとともに二番組となっている(増尾音治家文書「神
奈川県管内区長副区長姓名附並拾弐区村名附」)。

第一二区は、全体で一五の番組があり、中藤から
甲州街道にそった西側の箱根ケ崎村(瑞穂町)、
および砂川・柴崎(立川市)と熊川・福生村(福
生市)、川崎・五ノ神村(羽村市)、瀬戸岡・五日
市村(あきる野市)などの七二村が同一区域内と
された。そして、区には区長・副区長、番組には
戸長・副戸長を置き、区長・副区長の選出は、番
組の戸長・副戸長が選挙した。第一回目について
は県令が人選し、第一二区は区長が砂川源五右衛
門、副区長が田村半十郎に決定している。砂川が
依願退職になると、神奈川県令中島信行は七年四
月、その後任を入札で選ぶように同区内の正・副
戸長に達していた(乙幡泉家文書「区長砂川源五
右衛門免職二付入札其他」)。

 区には区長以下の事務を取り扱う区会所が設け
られた。区会所は区長の自宅を用いることが禁じ
られ、第一二区の区会所は拝島村となっている。
区会所は玄関に表札を付し、区内の村用掛以上の印鑑帳、戸籍・村明細帳、割付目録の写、村絵図などを揃えている。
区長・副区長は、県からの布告・布達を区内の番組へ廻達した。番組から県に差し出される届け書類については奥
印を行った。戸籍表の作成、勧業の奨励、道路の修繕、学校の保護・開化、孝義・奇特の「具状」、諸経費の節倹と
記帳などが職務である。区内の訴訟についても、区会所でまず取り扱い、処理不可能な事項について添書きをし「上
裁」をあおいだ。さらに番組の戸長・副戸長の「勤怠」を調べて「具状」(ぐじよう)することも職務であった。各区の区長は、
互選で毎月の「頭取」を決め、さらに「庁下二詰合」の書記を配置して、県側との緊密な連絡を保った。区長・副区
長は、戸籍編製を主としたそれまでと異なり、区内行政の責任者と位置づけられたのである。

番組戸長・副戸長

 番組の戸長・副戸長は、最初は各村在役の戸長・副戸長が集まって選出したが、原則として持
高一〇石以上とされた。第二回以後の選出は代議人による選挙とされている。明治六年(一八
七三)1O月に設けられた代議人制度については、代議人は小前一〇〇戸につき五人の割合で選ばれ、小前百姓に関
係する事項は代議人に「詞議」(じゅんぎ)することとされた。番組の戸長・副戸長は、区長・副区長、学区取締につぐ地位とさ
れ、番組内すべての事務を取り扱うこととされている(「資料編近代・現代』四一)。 第一二区の一番組の最初の戸長
は、中藤村の渡辺源蔵であった。番組内の「各村公用村用に関する一切の書類」は、すべて番組会所に備え置くこと
とされている。そして各村には村用掛が設けられた。それまでの各村の正・副戸長や百姓代は廃止され、村用掛が番
組会所で戸長の指揮を受け、村政に関する事務を取り行っている。課題となっていた戸籍編製についても、この区.
番組制のもとであらためて推進され、六年一一月には「戸籍総計表其外編製凡例」が出されるようになった(「川崎
市史』通史編三)。

 番組の戸長・副戸長の重要な職務には、「種々ノ弊風」をあらため、経費の減少をはかることがかかげられた。租
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税上納の時期になったら、「各村に分賦し、之を取金額精算之上区長に
付す」こととある。租税の取立方については、各村の「種々迂遠」(うえん)の旧
習で「無謂手数ヲ費ス」ことから、戸長が簡便に取り扱い、あわせて簿
冊などの整理と「詳記」も義務づけた。戸長・副戸長は戸籍編成や学校
設立・維持とともに、疫病流行に「医薬摂生ノ道」を図ること、「紀元
祭」「天朝節」などの「公祭」を実行することなど、「開化」政策を諸村
に浸透させることが職務とされている。創業の時期には、戸長・副戸長
が毎月二〇日に区会所に集まり、取扱いの方法などを「衆議」するよう
に定めていた。とくに第一二区一番組では、番組会所の設置、書役の選
出、村用掛の人選が命じられ、同番組戸長の渡辺源蔵に対して、「区長
江協議上、来ルニ十日迄可申出事」と達せられたのであった(『資料編
近代・現代』四一)。この番組戸長らは県官に準ずる身分上の扱いを受
け、明治六年三月の段階の番組戸長の月給は六円、副戸長は五円、書役四円、定小使二円であった。区の下の番組
に番組会所、各村に用掛が置かれ、まさに県(県令)→区会所(区長)→番組会所(戸長)→宿村(用掛)という地
方行政機構が形成されたのである。


大区・小区制下の民情

 明治七年(一八七四)一月、大江に代わって中島信行が神奈川県令に任官した。中島のもとで区・番
組制は廃止され、神奈川県でも大区・小区制が施行され、六月一五日から概してそれまでの区は大
区、番組は小区とあらためられた。同年五月二日には、大区の区長が一二等、小区の戸長が等外一等として、その身
分が準官吏として扱われるようになっている。布達
の徹底、戸籍の準備、雑税の徴収、小学校の設置・
維持、徴兵検査など、国政委任事務を主要な任務と
する下級官吏として、増大する行政事務を遂行した
のであった。

 さらに明治九年四月には足柄県の廃止もあって、
神奈川県内は二三大区、二〇八小区に改編された。
村山地域は区・番組制に引き続いて第一二大区とさ
れ、区会所は拝島村であった。一小区が中藤村、二
小区が箱根ケ崎村となっている。第一二大区は、四
番組の谷保村が第一〇区に組み替えられた。四番組
が減じた分だけ小区の番号が変わったが、区域全体
については区・番組制時代と大きな変更を生じてい
ない(図1-2参照)。

 神奈川県では「諸布令書」について、明治五年五
月に摺り立て上版とすること、区内町村に十数部ず
つ配布することを定めた(『資料編近代・現代』三
五)。それまでは「触」「触書」「御触」などと称し
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ていたが、明治六年八月以降の府県は「布達」と称することとされている。明治七年からは、文書を出した課の頭文
字を付け、「庶第何号」と称した。「布達」を甲・乙・丙号などと称したのは明治一〇年一月からである。「甲号」は
人民一般に対する「布達」、「乙号」は特定の大区・小区などにあて、「丙号」は数区の大区・小区にあてたもので、
結びは「此旨相達候事」と記された。

 また、警察に関しては、開港場を持つ神奈川県は、とくに脱籍浮浪者の取締りや外国人の警備に苦心した。川崎周
辺では、二子村の小池又左衛門、溝口村の島崎半兵衛、登戸村の小出新兵衛などが、外国人用の旅館として賑わって
いた。神奈川県では、明治四年一二月に邏卒(らそつ)の制を定めているが、村に区務所を設けて邏卒を派出した。中藤村の第
一二区では、「村々火附盗賊総而御取締」として邏卒御出張所を設け、六年二月から邏卒二名の派遣をうけた。大邏卒の月給は一人が金一〇円、中邏卒一人が月給金八円五〇銭、少邏卒一人が金八円である。別に衣服・器械の経費が
一人につき金一二円五四銭余となっている(『資料編近代・現代』四二)。邏卒は、「一区凡十人、平均一力年費高金
一千二百円、一人百二十円」とされ、その設置は民費負担を強いるものであった。

 邏卒は明治八年一月に巡査と改称され、それにともなって警察出張所および巡査屯所が置かれた。北多摩地域で
は、八王子警察出張所の府中巡査屯所が設置され、それが九年一月に神奈川県第五号巡査屯所、さらに一〇年二月に
八王子警察署府中分署と改称されている。中藤・横田・三ツ木の第一二大区一小区、岸・箱根ケ崎などの第一二大区
二小区では、八王子警察署拝島分署の所轄となっていたが、一二年に拝島分署が箱根ケ崎に変更となり、柴崎を中心
とした九村が同年三月に分署位置変更の中止を願い出ていた。この願いは野村神奈川県令から却下されたが、立川・
郷地(ごうち)・福島・築地・中神の五村は一五年一月、特置巡査の配置を上願している。特置巡査は村が費用を負担して特別
に配置してもらう巡査であるが、「立川村二於テ怪火ノ為メ焼亡之者モ有之、傍々以テ保護上二付片時モ等閑(とうかん)スベカ
ラザル際」として、二、三月に限って巡査二人の派遣を願い出ていた。砂川村でも、一五年四月に特置巡査の配置を
願い出ており、同時期の松方デフレにともなう農村不況のなかで、窃盗犯や放火犯の横行が地域の治安上の問題と
なっていたことが知られる。なお、明治二六年四月には警視庁府中警察署が府中駅五七三六番地に設置された。中
藤・横田・三ツ木・岸村をはじめとする一町一五村は、府中警察署の田無分署の管轄となり、同分署には分署長一
人、警部一人、巡査一一人、雇員一人の合計一四人が配置されるようになる。

 このような町村の改編と諸制度の整備を背景として、明治九年一〇月には「各区町村金穀公借共有物取扱土木起功
規則」が制定された。そこでは、明治七年に戸長・副戸長が準官吏となって町村民の総代でなくなったことから、町
村に団体としての法的権利を認め、所有権の行使を保証している。各町村において金穀を公借し、共有の地所建物な
どを売買し、また土木工事をはじめるときは、正副区戸長とその町村内の不動産所有者の六割以上の連印を要件とし
て定めた。連印のための協議は総代会を必要とする方向であり、「官選戸長」の専断を防ぐことが企図されている。
ところで明治政府は、廃藩置県後の明治五年に学制、翌六年に徴兵令・地租改正と、いわゆる近代の三大改革に着
手した。三大改革をはじめとする諸事業の貫徹が、町村の整理、統合の推進、小区の戸長・副戸長や町村の用掛を支
配の末端に位置づける方向に結びついたことはいうまでもない。さらに富国強兵を目的とした殖産興業政策のもとで
は、郵便、鉄道、道路、水道などの諸事業が進められた。江戸時代の飛脚に代わる近代的な郵便制度は、明治四年三
月に東海道筋で開業されている。また勧業については、各大区中の区長・戸長三名ずつに勧業掛の兼任を命じてい
た。「勧業着手大略」を達し、各種産業の奨励を行い、明治一〇年五月にも「勧業事務問答心得書」を達して、その
振興を企図している。
あつれき
このような諸改革の実施は、それまでの町村を一変させたが、一方で町村内にさまざまな圧礫を引き起こし、また

財政的な負担を強いるものであった。新政府は江戸時代からの旧慣を是正するなかで、畑作の増租を指示していた。
畑の年貢が田方に比べて軽く、しかも旧幕領が旧藩領より低めに軽く設定され、米価の高騰にともなって金納分が峯
質の減税となっていたことによる。五年九月に「米納之貢額二比較候ては格外偏軽相成不公平」として、府県から「細
当之増税之見返相立」るように命じ、各村から請書を出させて増税を実施したのであった(『資料編近代・現代』三六).
それゆえ同県では、区.戸長に対して諸般の改正による費用増加への対策を命じていた。明治六年(一八七三)一
ひたアら
一月の「区長戸長事務取扱心得書」のなかで、一般農民が百ハ管目前ノ苦情ヲ唱へ候」事態であるとし、区長・戸冨
事務の統制と経費節減を図っているのが、それを窺わせる。そして県は、地租改正を契機として町村の合併を推進ー
た。七年一二月には、県官が出張先の牟礼村に村役人を呼び出し、中藤村の佐兵衛組、源蔵組、市郎右衛門組の三細
合併を指示している。同村では「小前一同ヨリ難渋ヲ申居候」という事態であったが、翌年五月には合併の連印書夕
出すに至ったのである(乙幡泉家文書「連印書」)。

民会の開催

 区・番組制とその後の大区・小区制では、前述のように町村からの代議人の選出が命じられ、代議人を通じて旧村の意向が把握された。神奈川県は、明治七年(一八七四)六月に代議人を戸数五〇戸ま
で二名、六〇戸までを三名、八〇戸までを四名、一〇〇戸までを五名とし、その選出を命じた。一〇月の達では、村
用掛についても戸長などと同様に代議人の投票で選任するように指示している。翌八年一〇月には「代議人規則」を
定め、代議人の数を増やし、代議人が町村用掛の代理または補助を勤めることを禁止して、いわゆる村会議員と位置
づけた。代議人は「民費」の「割渡シ方」を相談し、その「遣払」の検査などに関与するようになっている。

 一方、政府は明治八年七月、各県の県令などを東京に集め、第一回の地方官会議を開催した。議題は道路堤防橋簗
の件、地方警察の件、地方民会の件、貧民救助方法の件、小学校の設立および保護の件である。主な議論は、県会や
区会などの地方民会を公選の議員で組織するのか、区・戸長の議員にするのかという点に集中した。結果は、民会を
区・戸長の議員で組織する漸進的な方針が決議された。
神奈川県の場合、明治六年以降、県官と区長による区長会議を定期的に開催していた。八年五月には、それまでの
区長会議を県会と称し、「県会議事章程」を定めて毎月会議を開催していた。県令の中島信行は、後年に自由党副総
理、第一回衆議院議長になっており、議事制度の導入に積極的であった。そして中島は、公選民会の実施にも熱心で、
八年七月には「町村議事会心得」「町村会議事仮規則」を各区戸長・副戸長に達し、それに準じた議事規則の制定と
町村議事会の開催を指示した(『神奈川県史』資料編一一)。町村会は公選によって選ばれた議員で組織され、「町村
内人民ノ安穏公益ヲ謀ル」ことを目的として、各町村ごとに毎月一日に開催するとされている。大区・小区制という
行政機構のなかで、県の議事機関として県会(区長、後に議員会議)↓大区会(正・副戸長会議、後に区町村総代人
会)↓小区会(町村用掛会議)↓村会(代議人会)という「地方民会」の系列が組織されたのであった。
この神奈川県の第一回の臨時県会は、明治八年一二月一日から七日間にわたって開催された。臨時県会の議案は第
一が民費予算徴収方法を設けること、第二が道路修繕方法のことであった。臨時県会初日にみずから議長となった中
島県令の演説は、次のようであった(『川崎市史』通史編三)。
ここゆえん
弦二本月本日臨時県会ヲ開設スル所以ノモノハ、毎月ノ定会ハ只一日ノ問ニアリテ、条件ノ紛密要旨ヲ尽ス事ヲ
しかしょくしょう
得ス、而シテ道路ノ修繕民費予算徴収ノ方法ヲ設クルハ、地方官職掌ノ最モ大要領ニシテ、此施設ノ適不適トニ
因テ、区内人民ノ公益ヲ得ルト得サルトニ関係ス、故二此臨時県会ヲ開設シテ此二件ヲ議シ究メント欲ス、然リ
而シテ議案二掲載スルモノナレハ、公然掲名シテ穏当ナラサル目モ之レアルヘシ、右等ノ取捨ハ各議員ノ議場ヲ
以テ之ヲ決セント欲ス、各議員幸ヒニ此旨趣ヲ体シ議案ノ件案二就テ審議センコトヲ渇望ス

これに対する議員青杢畢治の馨は、「県令閣下」の人民への愈悔下付Lに感銘し・県令の「旨趣」を「確実」
にするという姿勢を表明したものであった。県会は、区長・副区長と県側の協議の場であり、まさに諮問議会的な役
割を持たされたといえる。
また、明治九年二月の会議は、「地租改正ノ件」が中心となった。担当官員が出席して、「反別位当部分書上帳」に
「四周村々承諾印」を行って提出すべきとの指令に対し、大区からの提出の遅れが懸案となっている。会議は遅延の
大区に対する督促を決定していた。第一〇、一一、一二、一三、一八、一九、二〇大区に官員巡回の実施を了承して
いる。各大区の区長は、県庁に出頭して地租改正の事務促進や町村合併を指示され、公用・区用の旅費の区分、勧業
掛の選出などの諮問をうけたのであった。そして、各大区の「反別位当調」については、明治八年の地租金相場が高
額であったことから、従来の一〇.一一.一二月の三か月平均の算出方法に対し、一一・一二両月の平均金額を取る
レリしごつぞつよトつ
ように県側へ要求していた。すでに八年の相場に一円余の差異を生じて「下民喋々苦情ヲ鳴シ候」ことから、「目今
さアん げやノド
下情御参酌ノ折柄二付、御洞察ヲ以御聞届被下度」との書面を県側に提出している。区長のなかには悲観的な者もい
たとい
たが、多くの区長は「仮令ダメニモセヨ、下民ノ情態ヲ具状スルハ区長ノ職務ナラズヤ」として、連署上申したので
あった(『川崎市史』通史編三)°
→方、村用掛を集めた小区会も概して不活発で、同時期の村会もまた、「十ガ五、六開会ナラザルコトヲ聞知ス」
と評されたようである。もっとも、代議人の役割は、諸政策を地域に浸透させ自発的協力を引き出すために重視さ
れ、神奈川県では明治一〇年八月に、「町村総代人選挙規則並心得書」を達していた。そこでは、代議人を廃して、
不動産所有者の総代としての町村総代人の選出を定めている。前述のように政府は「各区町村金穀公借共有物取扱土
木起功規則」を定めており、区町村の公金や穀物に関する村としての借入れ、共有地の地所建物の売買などに、住民
の同意が必要とされた。町村財政の処理方法を決めるものとしての総代人制度が作られている。県庁や区戸長から
=般人民」に関する意見を尋問する場合は、町村総代人からの意見を徴し、その回答が「人民ノ一同答フルモノト
見認ルヲ以テ成規」とされた(『神奈川県史』資料編一一)。人民の代理人とされた町村総代人は、小区会議員を兼任
することとされ、その小区会は、毎年二月、八月の第一月曜日が定例日とされたのである。
さらに明治→○年九月には、神奈川県の「大区会議事規則」が定められ、大区会も三〇〇戸あるいは四〇〇戸に一
人の割合で、町村総代人のなかから互選した議員によって運営されるようになった。一一年二月には、県会議員の構
成も、各大区議員のなかから二名ずつ互選とされている。代議制度は、町村民↓町村総代人(小区会)↓大区会議員
(大区会)↓県会議員となり、不十分ながらも、町村民の意志を反映するいわゆる民会の基盤となったのであった。