江戸の問屋・仲買人とのトラブル
江戸の問屋・仲買人とのトラブル
こうした村人達の駄賃稼ぎ(江戸へ搬送して売捌く)は、江戸の問屋・仲買人と利害が対立しました。村人達の搬入を問屋・仲買人が妨害し、価格の介入をしてきました。
これに対し、後ヶ谷村名主勘左衛門外一名が代表になって多摩郡11、新座郡4、入間郡20、計35か村を代表して、問屋・仲買人を相手取り、勘定奉行所に訴えを起こします。寛政11年(1798)10月の出来事です。その様子を東大和市史より引用します。
「私どもの村むらは武蔵野新出附の「薄地(はくじ)」の土地柄で全体的に困窮しており、農業の「作間稼(さくまかせぎ)」には、八王子・五日市村・青梅村・飯能村の山方で生産される炭を購入あるいは穀物と交換ならするなどして入手し、また私どもの居村内の手余り地などに楢くぬぎ・椚・松などを植え、その成木を炭にしたり薪に伐り出すなどし、その炭・薪を江戸へ搬送し武家屋敷などに納め、賃銀・駄賃稼を続けてきた。
ところが、このたび江戸の問屋において「直売」は違法であるとして搬送の荷物を川岸で留め、江戸への搬入を妨害した。この行動は「全之処、江戸問屋・仲買共一同馴合、私共より御屋敷様江御入口不レ為レ致」、問屋たちが私どもより「下直二〆買致シ高直二売捌存念」と察せられる。このように今般突然に「荷物被ニ差留一誠ニ当惑」している。訴状は大体以上のように述べている。」
訴訟の結果は村の主張が認められています。(p182)