江戸街道
2011年7月23日
14:33
④江戸街道(新青梅街道)
大通りの象徴のように、ガソリンスタンドや大型ファミリーレストラン、大型ショップが軒を並べる新青梅街道は、現在わがまちの大動脈といえる道である。昔は江戸街道といわれ、荷付馬や旅の商人などが利用する野中の一本道であった。江戸のはじめ築城用の石灰を青梅の成木から江戸に運ぶ石灰路は、南の青梅道ができるまではこの道が使われたという。道筋は箱根ヶ崎から村山を経て庚申塚から東村山の九道の辻、そして小平の大沼田新田を過ぎ田無へ通じ、旧青梅街道の北を平行に走っていた。村方の物資を運ぶにも江戸への近道として一時はかなり栄えた時期もあり、小平辺では沿道に種々の店舗が並ぶ状況もあった。
このように江戸への通路として機能していた街道ではあったが、狭山丘陵に沿った山の根通りの道と達って里から遠く、この土地の人びとにとって日常生活には比較的縁の薄い道であった。
村山貯水池と、それに続く山口貯水池工事に伴なう移転の人たちが、この沿道付近に居を構えるようになってやっと、生活の気配が漂いはじめたものの、ほとんど一面の畑が続いていた。特に庚申塚から西の方は戦後も芝草が道をふさぐようなのどかな農道であった。明治のはじめこの道に砂利を敷いた。舗装のない昔は、荷車や馬力による道のいたみも激しく主な道路は毎年のように村民による道普請が行われたものである。このときも地元の人が出て道の両側に大きな穴を掘り、掘り出した砂利を敷いたが、あちこちに砂利穴ができて危険であった。庚申塚のガソリンスタンドの所や野島自動車付近に深い砂利穴が掘られたという。
庚申塚はその名の通り、西北の一隅に庚申塔が建っていた。今交番がある所で塚のように小高くなっていて、上に庚申塔と馬頭観音が祀られていた。この庚申塔には、東、江戸道、北くわんをん道、南府中道、西、右中藤・左青梅と道しるべが彫り付けられ、馬頭観音とともに通行の人馬の安全を守っていたのである。昭和四十年代、新青梅街道の拡幅のため塚はならされ、石塔は雲性寺の門前に移された。
庚申塚にあった道しるべが示すように東は江戸へ、北は山口観音へ、南は現在の青梅街道で当時は府中道といわれていた道、西は間もなく分れ道があって、本道は村山から青梅へ続き、右へ分れた道は砂の川を渡り北西を目指すと四ツ街道への道に出る。つまり昔いう所の横街道で、芋窪の本村から南へ五〇〇㍍ほど離れた道である。さらに西進すれば大曲りで、旧青梅街道に合流する。そこは中藤村で中心地もほど近い。
新青梅街道は市内では西から江戸街道たどの道筋を辿りながら、狭山に入ると間もなく北東に改められた。このとき三光院は境内地を一反余り(約一〇アール)買収され街道に面することとなり、所管する中堂墓地と分断される形となった。すぐ東に設置された「東大和市」、つづく「三光院西」の交通標識が東大和の東の入口を意識させ、混維した街道を帰って来た市民ドライバーの心の安らぎになっているようだ。
さて、本来の江戸街道は、その名に由来する字名が狭山、清水にあったが、江戸が東京になった後、東京街道と改称された。昭和三十八年、この地域最大の都営団地が建設され、字名をとって「東京街道団地」と称した。旧江戸街道の南方一帯の地域である。この道を久米川・立川間のバスが通るが、「東京街道団地」「団地北」のバス停があって街道との位置関係が判る。
昭和四十八年から徐々に行われた地番整理で、かつての小字名が消えることになった。現在東京街道には、旧称の通り「江戸街道」の標識が立っている。
(東大和市史資料編9道と地名と人のくらしp21)