浪人取締組合(文化4年・1807)



浪人取締組合(文化4年・1807)

  1700年代後半になると狭山丘陵周辺の村々も富をなす者、没落する者が出てきます。その状況を武蔵村山市史は次のように記します。
「家や土地を失い村を離れた農民たちは、遊民となって江戸や周辺の都市部へ流入したため、農村人口は減少し、荒廃地は増大するばかりであった。こうした遊民のなかには無宿や渡世人となって長脇差や刀を帯びて横行したり博奕に耽るなど治安が乱れていくようになった」(下p1115~16)

 文化2年(1805)6月、幕府は、江戸近郊の農村が荒廃し治安が悪化したとして、関東取締出役(=八州廻り)を設置しました。幕府領(天領・御料)、大名領、旗本領などの私領、寺社領の区別なく、横行する無宿・悪党の取り締まり、捕縛に当たり、勘定奉行に直属しました。

 その2年後の文化4年(1807)です。狭山丘陵南麓に「浪人取締組合」が結成されました。浪人の徘徊、合力銭の要求、宿泊禁止対策が主な目的です。 21か村で結成されたとしますが、次の15か村の名が残されています。
廻り田村、後ヶ谷村、宅部村、清水村、高木村、奈良橋村、蔵敷村、芋久保村、中藤村、横田村、三ツ木村、岸村、殿ヶ谷村、石畑村、箱根ヶ崎村(東大和市史p195)


 狭山丘陵南麓の村がほとんど占められていることに注目です。これらの組合村の積み重ねが、やがて文政 12年(1829 )3月の「文政の改革組合村」の形成へと広がって行くものと思われます。( 2014.08.06.記)

東大和市史p195~196
文化の浪人取締組合

 次いで文化四年(一八〇七)の「浪人月行事相定之事」による

と、浪人躰(てい)のものが数多く村むらを俳徊(はいかい)し、合力銭をねだりとる
ので村むらは難儀をしている。二十一か村で組合を結成し、月行
事を決めて、浪人一人につき八文を出すこととし、それ以上は決

して出さないこと、彼らを宿泊させないことを定めている。(65)本文
には二十一か村とあるが、村名が判明するのは十五か村のみであ
る。それを地図に示すと図1のようになる。明和の組合村はほぼ
すべて含まれ、他に現在の武蔵村山市や、瑞穂町の村むらといっ
しょに組合村を結成していることがわかる。

文化の代官支配地
文化八年(一八一一)正月、幕府代官川崎平右衛門は年頭にあ
(66)
たって村むらに諸注意を与えた。賭の諸勝負の禁止、農業出精等
の内容である。いわゆる代官支配地を示すもので、組合村ではな
いが、参考までに二新六か村を地図に示したのが図2である。
文化の鷹場預り場組替
文化十四年(ノ八ノ七)十二月、尾張藩の立川陣屋より、砂川