清戸街道
2011年7月23日
14:34
㊧清戸街道
青梅街道の奈良橋丁字路を東へ折れる道は志木街道である。奈良橋川に架る日月橋を渡るとすぐ南へ斜めに入る道がある。土地の人は清戸街道と呼ぶ。今は旧家も建替えが進み、新しい住宅が道沿いに並んでいるが、どことなく古い面影が残る道である。そのまま東進すると目の前をふさぐ形で高木神社の社地の森が迫ってくる。社前をさらに進むと、五〇〇㍍余りで、もと三角山といわれた所に至る。ここが八王子道との分岐点である。高木と狭山の界であり、今は住宅になっているが昭和四十年後半にはまだ貯水池内から移された元禄と天保の庚申塔二基がこの三角山の路傍に祀られていた。
この地点からなお東進五〇〇㍍ほどでまた三角地に出る。この三角地には堂が建っていて、中には同じく貯水池移転の庚申塔が二基祀られている。俗に三角神社ともいったが、一般に庚申神社といわれ鳥居も建っている。昔は大きな欅が枝を張り、野口弥五右衛門という篤志家が掘った井戸もあって道行く旅人や商人たちの憩いの場所であった。
この辺は清水である。街道はこの庚申に因(ちな)んで「お庚申通り」とも土地では呼ばれている。道はやがて東村山を抜けて清戸(清瀬市)へ向う。清戸には古くから宿場があって近在の人びとで賑わっていた。
(東大和市史資料編9道と地名と人のくらしp26)
清戸に市が立っていた証拠
引又の市の起源 天和二年(一六八二)
水災の多い宗岡から市場が引又に移った時期はいつ頃であるかはっきりしない。地元の文書には天和二年(一六八二)に創始されたと書かれたり、元禄十二年(一六九九)に松平美濃守の仰せ付けによって始められたと記載されているかと思うと、元禄十二卯年三月改と記された文書もある。ところが実際は天和二年よりも更に古いようだ。「引又は舟着きの便が良いので二八か村の共同出願によって市を取り立て肥料の売買をして耕作が自由にできた。かくて十年迄は市が立ったが、清戸村から引又に市が立っては清戸の市が成り立たなくなると訴えたため、引又の市が中止させられたが、清戸に行くには遠くて不便なのでなんとか引又の市を復活させて頂きたい」と二八か村の名主が訴え出た天和二年の「引又市場取立訴訟願」によれば、天和二年の前に暫く空白期間があり、その前に一〇年間市が続いたと理解できる。この空白期間を何年間と見るかによって結論は違ってくるが、仮りに空白期間を五年間とした場合、引又の市の創始は一五年前の寛文七年(一六六七)となるが、ブランクが僅か一年間であれば寛文十一年ということになり、いずれにしても寛文年間であることには間違いなさそうだ。承応四年(一六
五五)に野火止用水が開通して、引又の後背地である野火止・北野・菅沢・西堀(以上、現新座市)や北多摩北部諸地域での開発が進み、農業生産力が増大してくると、単に肥料を購求する場としてだけでなく、余剰農産物を販売する場としても、水陸交通の要衝に位置している引又の市は周辺農村に不可欠のものとなっていたことだろう。
志木市史上p383
清戸道
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清戸道(きよとみち)とは、主に江戸時代に、江戸と武蔵国多摩郡清戸(現在の東京都清瀬市)との間を結んでいた古道である。
目次
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• 1 概要
• 2 経路
• 3 参考文献
• 4 外部リンク
概要 [編集]
神田川に架かる江戸川橋(現東京都文京区関口付近)を江戸側の起点とし、そこから北西へ約5~6里(約20~24km)の武蔵国多摩郡清戸(上清戸村、中清戸村、下清戸村、清戸下宿。現東京都清瀬市上清戸、中清戸、下清戸、下宿付近)との間を結んでいたとされる。
成立の経緯は明らかではない。江戸時代に尾張藩の鷹場が清戸にあり、そこへ鷹狩に向かう尾張藩主が通ったといわれているが、それよりも、農村であった清戸から、市場である江戸への農産物の輸送路としての役割が大きかった。5~6里という距離は当時徒歩で1日で往復できる範囲であり、清戸の農民は早暁、野菜等の農産物を背にかついだり荷車に積んだりして出発。江戸に着いたらそれらを市場や町家で売りさばき、また野菜栽培に欠かせない下肥を町家で汲み取り、それらを持って夕方には村へ帰ってこれたものと推測される。これに沿道の豊島郡練馬村(現東京都練馬区)などから練馬大根をはじめとする農産物の輸送も加わり、そうした往来から自然発生的に道が成立したものと考えられている。
「清戸道」の名称は、江戸時代以前の文献には確認できないが、『新編武蔵風土記稿』では「下高田村」(現東京都豊島区)の「村の北寄に目白辺より練馬辺への往還掛れり」、「長崎村」(同)の「雑司ヶ谷より練馬村境界に通ずる往来あり、幅五間」といった形で清戸道に相当する道の記述が見られる。
明治以降の文献では、1885年(明治18年)7月の『渡辺府知事管内巡回記』に、「北豊島郡高田村(現東京都豊島区)ヨリ埼玉県下小榑村(現東京都練馬区・当時は埼玉県新座郡)境ニ至ル」と記され、地方税道路として中山道並みの重要な道路として取り扱われている。事実、『北豊島郡誌』によれば、1918年(大正7年)度に行われた1時間平均交通量の調査で、清戸道のそれは中山道に次ぎ、川越街道(国道254号)よりも多かった。
その『北豊島郡誌』には、清戸道の経路について、「清戸道 府費支弁道東京市小石川区江戸川(現東京都文京区)より起り、本郡高田村の南部を東西に貫きて長崎村(現豊島区)に入り、同村と豊多摩郡落合村(現新宿区)との境界を劃して、上板橋村の南端(以降、現練馬区)を縫ひ、進んで下練馬村と中新井村との境界に沿うて上練馬村に入り、石神井村に於て富士街道を横ぎり、大泉村の中部を貫走して北多摩郡と埼玉県北足立郡との境界に進む」と記されている。
経路 [編集]
()内は現在の地名や施設名、及びほぼ比定できる都県道などの名称である。
• 神田川・江戸川橋(東京都文京区関口)-(東京都道8号千代田練馬田無線)-(目白坂下南交差点)-目白坂-(椿山荘前付近)-(東京都道8号千代田練馬田無線(目白通り))-(目白台二丁目交差点)-(豊島区南長崎3丁目付近・南長崎交番)-(南長崎郵便局)-(豊島区南長崎6丁目付近)-千川上水沿い(東京都道439号椎名町上石神井線(千川通り))-(練馬区・豊玉北六丁目交差点)-(東京都道8号千代田練馬田無線)-(練馬区向山4丁目付近)-(練馬中入口交差点)-石神井川・道楽橋-(練馬福祉会館前交差点)-(東京都道8号千代田練馬田無線)-(谷原交差点・富士街道(ふじ大山道)と交差)-(東京都道・埼玉県道24号練馬所沢線)-(練馬区西大泉・四面塔稲荷前交差点)
• 「目白坂」(文京区関口)には、江戸時代に「立ん坊」と呼ばれる自由労働者がたむろしていた。この坂で農民が農産物や下肥を満載した荷車を上り下りさせる際に手助けし、その駄賃で生活していた。
• 目白台二丁目交差点で目白通りに接続する不忍通り(東京都道437号秋葉原雑司ヶ谷線)の坂道は「清戸坂」と呼ばれ、「清戸道へ上がる坂」がその由来となっている。
• 石神井川に架かる「道楽橋」(練馬区)は、橋の架け替え工事の際に付近の農民を集めたところ、農繁期であったために人員が集まらず、なかなか工事が進まなかったことから、道楽で橋を架けているように見えたためにその名が付いたとされる。
現在の練馬区西大泉・四面塔稲荷前交差点から清戸までの経路についてははっきりせず、幾つか説がある。
1. (四面塔稲荷前)-(埼玉県新座市・片山交差点・東京都道・埼玉県道36号保谷志木線と交差)-(菅沢交差点・埼玉県道・東京都道40号さいたま東村山線と交差)-清戸下宿(東京都清瀬市下宿)
2. (四面塔稲荷前)-(東京都道・埼玉県道24号練馬所沢線)-所沢道(埼玉県新座市で合流)-(東京都東久留米市金山町1丁目付近)-(衛星センター前交差点)-中清戸村と下清戸村の境(東京都清瀬市中清戸)
3. (2.の金山町1丁目付近)-所沢道(東京都道・埼玉県道24号練馬所沢線)-(埼玉県新座市新堀2丁目付近・三界万霊塔)-(新座市・新堀小学校北交差点)-上清戸村(東京都清瀬市・中清戸駐在所前交差点)
4. (3.の新堀2丁目付近)-所沢道(東京都道・埼玉県道24号練馬所沢線)-上清戸村(東京都清瀬市上清戸)
参考文献 [編集]
• 石神井図書館郷土資料室『練馬の道』練馬区教育委員会、1974年。
• 神代武男『練馬のむかし-富士講と清戸道-』、1995年。
外部リンク [編集]
• 北倉庄一『街道を尋ねて』
○ 中世を歩く・3-身近な古道 (第5)練馬の道・清戸道
「清戸道」は、道路に関連した書きかけ項目です。この記事を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:道路/PJ道路)。
貼り付け元 <http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%88%B8%E9%81%93>
清瀬散歩その壱;清戸から下宿、そして柳瀬川を中里に
yoyochichi (2011年3月27日 22:57) | コメント(0) | トラックバック(0)
清瀬を歩くことにした。練馬を歩いたとき、折に触れて清戸道に出合った。文京区の江戸川橋から始め、目白通りを付かず離れず清瀬の清戸村へと結ぶ道である。清戸村にある尾張藩の鷹場を結ぶ道、と言う。もっとも、尾張藩の鷹場は広大なもので、三鷹あたりから青梅までをカバーしたようであり、正確には中清戸村にあった尾張藩の鷹場御殿(休息所)への御成道であった、と言うところだろう、か。それはともあれ、清瀬を訪れ往昔の鷹場の名残など感じたいと思ったわけである。
それにしても、清瀬にかかるフックはなにも、ない。どこから散歩を始めればいいものか、少々戸惑う。地図を眺める。と、駅近くに清瀬市郷土博物館がある。まずは清瀬市郷土博物館に出向き、あれこれ資料を眺め散歩のルートを決める。資料が手に入らなければ、清瀬の北端、所沢との境を成す柳瀬川を下るか、上るか、その場の成り行きで決めようと、例によっての、行き当たりばったりの散歩をはじめることにした。
貼り付け元 <http://yoyochichi.sakura.ne.jp/yochiyochi/2011/03/post-155.html>
2、捨て場山
私が子どものころは、もうありませんでしたが、清戸街道(東村山では、鷹の道)の廻田境に、「捨て場山」という所があったといわれています。
理由はかなり昔、動物の死体を捨てたところといわれ、 私のこどもの頃は、畑になっていましたが、そこに家を建てた人がいました。 そのことについて、「どうしてあんな所を買ったんだろうか」と言う人がいました。
私には理解できないことですが、宗教的なことか、あるいは慣習があったのかもしれません。狭山の霊性庵墓地のところにもあったそうです。