清水上砂台遺跡
東大和市史資料編3 p78~81
①清水上砂台遺跡
清水上砂台遺跡は、市の東部の空堀川の南岸に位置する遺跡で、一九八八・八九年(昭和六十三・平成元)に発掘調査が行われた。
遺跡の範囲は、空堀川南岸のゆるい北向きの斜面とその南側に連続する平坦地にあたり、斜面上部から平坦部分に移るあたりの関東ローム層の中から先土器(旧石器)時代のものと思われる石器や、細かく砕かれたような石が集まった「礫群」が発見された。
また空堀川に面した部分からは、石がびっしりと詰った状態で見つかり、古い川原の跡と考えられている。そのほか、すり鉢状の穴の中に細かい礫がびっしりと詰った「集石」が三か所で見つかっており、縄文時代にも活動があった遺跡であることをうかがわせてくれる。
さらに遺跡南部の平坦地には、断面形がV字状の深い溝が、二本平行に東西方向に掘り込まれていて、その性格が問題となっている。
先土器時代の遺物を含む礫群は、空堀川南側の台地が川に向かって落ち込み始めるその前後の部分に位置している。地表面から五〇センチメートルほど下の関東ローム層の中に、大小の礫や石器が混ざり合うように大量に見つかっている。数メートル四方の狭い範囲に特に集中する傾向があり、そうした集中範囲が数か所、しかも上下にも数層に分れるように検出されている。通常の状態では関東ローム層の中にこれだけ大量の礫が存在することはまずあり得ない。ということは、こうした礫群があるということが、人間の何らかの活動があったことを示していることになる。
一部の礫には煤(すす)のようなものが付着したり、熱を受けて赤く変色しているものも見られることから、火に関連のある遺構である可能性が高く、焼いた石を使った石蒸し料理の跡と考えられている。実際に料理をした場所だったか、それとも石焼きに使った石を一か所にまとめたものだとする考え方だ。
礫群の周辺からは、石を意識的に打ち欠いた石器も見つかっている。ナイフ形石器はカッターのようにものを切ったりあるいは刺したりする石器だ。スクレイパーは、ものを削る石器。さらに槍の穂先となる尖頭器も見つかっている。石器の製品以外にも石器を作る時に出たと思われる破片が多数見つかっており、石器の製作や補修も行われていた可能性を示している。
しかし、石器や礫群の他に、これらと同じ時代のものと思われる遺物や遺構は見つかっていない。石器以外にどんな道具を使い、どんな暮らしをしていたのかは謎のままだ。
同じように、焼けた石を使って石蒸し料理をした集石遺構が三か所で見つかっている。礫群と違い、細かく砕けた石がすりばち状のくぼみの中にびっしりと詰まっていて、焼石の熱をより効率よく利用できるようにしたもののようだ。いつごろの人たちが造った遺構なのかを示す具体的な資料は少ないが、わずかに見つかった土器や、集石近くから見つかった打製石斧などから、縄文時代の中期ごろのものと考えられる。
またこの遺跡の発掘調査では、市内で他に例を見ないものが発見された。遺跡の北端の空堀川に面した場所では、現在の河道のはるか手前から地山が落ち込み、拳大からそれより大きな石が偏平な広がりを見せてびっしりと並んでいた。まさに川原という意外にはその性格を説明できないもので、はるか以前の空堀川の流れの跡と考えられる。川原の上に積もった土の堆積状況はかなり複雑な様子を示しており、何度かの洪水があったことが想像される。
川原石の間からは、黒耀石やチャートの破片が見つかっており、一部には人為的に打ち欠いたと思われる遺物もある。こうした遺物がこの遺跡の住人によって作られたのだと考えると、当時の人びとは、今の川とは違う流れの川を見ていたことになる。現在は両岸をコンクリートで固められてしまったが、一万年から二万年前の空堀川は、人びとの暮らしと密接な関わりがあったと想像できる。
さらに、礫群の南からは、深さが七〇センチメートル、上端の幅が二㍍材にもなる大きな溝が発見された。断面の形がV字形のこの溝は発掘調査区域を東西に横断して調査区域の外にまで伸びている。残念ながらこの溝がいつごろのものなのかを示す遺物が発見されなかったため、時期の特定はできない。だた興味深いのは、溝の両側には対になった浅いくぼみがほぼ等間隔で並んでいることだ。まるで溝の上に丸太でも渡していたかのような様子に見え、この溝の性格を考えるキーポイントになりそうなのだが、今のところはかえってこの溝を謎めいたものにしている。