清水村(新編武蔵風土記稿)
○清水村(しみずむら 清水村附持添新田)
清水村は、郡の北入間郡の界にあり、開闢の年代及村名の起る所をしらず、江戸日本橋より行程八里許、東は廻り田村に隣り、南は小川村及び高木新田に接し、西より北へかかりて後ヶ谷村につづき、狭山の峰を境として入間郡町屋村に連れり、
村内を東西する街道あり、西方後ヶ谷村より狭山の根通りへかかり箱根崎へ出る通路にて、東廻り田村に入れり、道幅凡二間、村の大抵東西凡十町、南北二十五町許、北の方は狭山を負ひて根通りに民家あり、前は田圃なり、又、山ありて、このふもとにも民家連り、東南は武藏野新田にして平夷の地なり、
戸数は五十二軒、所々に散在せり、田は少く畑は多し、土症は黒土なれば宜からず、南の方武蔵野附はことに土症悪くして、専ら糞培の力をたのめり、用水は村内わずかの溜井、及外にわづかの流あるを以てたすけとせり、されどもと天水の場なれば、早損の患ありて水災はなし、
男女耕作をなせる暇には、男は薪をとり女は蚕養のことを務めり、この辺往々かくの如し、村内尾張殿鷹場に属して、右の役をつとめり、寛文九年岡上次郎兵衛・近山五左衛門・今井九右衛門等命を奉して検地をなせり、私領と云へるは淺井楯之助采邑にして、古新田の分は御料にして、そこは大岡源右衛門御代官所なれども、此の分には民戸なく、則この本村の持添なり、
高札場 村の中央名主の前に在
小名 的場(村の坤にあり) 元木(巽の方にあり) 峰久保(北の方狭山の根通りにあり) 峰の前(峰久保の西、狭山の根通りにあり)
山川 狭山 当村の北多摩・入間両郡の界にあり、東久米川村より西箱根に及ぶ、高さ凡二十二町許、近隣の村々に係れり、
悪水堀三流
一は村の西、中藤村より涌出し、中央より南により東流して、廻り田村に入れり村内にかかること凡そ十町、川幅二間よリ三間に及ベり、
一は西後ヶ谷村より涌出し、村の中央を通じ、これも東流して廻り田村に沃けり、村内を経ること十町許、川幅凡二間、
一は北方を通ぜり、西芋久保村より涌出し、村を過ぎること十町許、東方廻り田村に至れり、川幅二間許、
神社
氷川社 社地、村の北の方狭山の根通りに在、本社六尺に五尺、上屋三間に二間半、拝殿五間に二間、共に丑の方に向ふ、神体とするもの絵馬の如にして、表は素盞烏尊、稲田姫、猿田彦、左右に貌狛を彩色にて写したれども、剥落してかすかに残れり、永禄十二年の裏書あり、図下に載す、
この外本地佛正観音木の座像、長一尺五寸許たるを安す、御朱印五石は、天正十九年十一月日御寄付あり、例祭は六月十五日なり、供物台三つあり、形は腰高茶台の如くにして、斧にて削りし如く、至て古く見ゆ、祭のせつこれを以て奠供(てんきょう)せり、本社の右杉の大樹二株並べり、囲み一丈五尺 一は一丈二尺、石階上下あり、上は二十四級、下は九級、此辺の鎮守にて、別当は本山修験、本郡府中宿門前坊の配下にて、村内円達院持、
熊野社 除地百坪許、村の中央成就院の境内後にあり、この辺の鎮守なり、本社三尺四方、上屋九尺四方、拝殿二間に九尺、共に坤に向ふ、神体白幣、本地佛は観音にて、木の立像長一尺五寸たるを安す、前に鳥居を立、例祭は九月十九日を以てせり、社地には松杉雑樹ありて繁茂す、村内成就院の持なり、
寺院 三光院 境内は御朱印地の内なり、村の北にあり、真義真言宗、同郡青梅村金剛寺の末、輪王山真福寺と号す、開山は圓長と云、天永三壬辰五月三日寂す、法流開山を寂如と云、享保二十一年丙辰閏月十一日寂せり、本堂十間に五間東向、本尊彌陀を安す、木の坐像、長一尺、御朱印三石は天正十九年辛卯十一月日御寄付あり、
門 本堂の正面に建つ、
裏門 長屋作りにて七間に二間、表門と相並べり
鐘楼 門の外向て左の方にあり、九尺四方、鐘は近来鋳成するものゆへ、序銘を略す、
地蔵堂 門の左右の方にあり、六尺四方、
古碑一基 本堂の前南よりにあり、長二尺幅一尺許、中央に南無阿弥陀仏とあり、左右に応安二年己酉正月と刻し、下に日阿禅門とあり、
成就院 除地二段許、村の中央にあり、真義真言宗、豊島郡石神井村三宝寺の末、清水山安養寺と号す、開山開基詳ならず、本堂七間に五間南向、彌陀長一尺なる木の坐像を安す、境内熊野社地に接し、松杉雑樹繁茂なせり、
大日堂 除地二段、村の中央にして北よりなり、堂二間に二間半南向、大日は石の座像長二尺一寸許、此堂は里正清左衛門が先祖建立せし由を云へど、其年代は詳ならす、堂の傍に里正代々の墳墓あり、
観音堂 見捨地一畝、村の中央道の傍にあり、二間四方南向き、正観音木の立像二尺一寸許なるを安す、村民持、
新編武蔵風土記稿
『新編武蔵風土記稿』は、江戸幕府によって編纂された武蔵国22郡の地誌です。林大学頭述斎の建議により、編纂は、文化7年(1810)に、昌平坂学問所内地誌調所において開始されました。文政11年(1828)に調査を終了、天保元年(1830)に完成したとされます。
多摩郡については、八王子千人同心の原半左衛門胤敦らの手により編纂されまそた。隣村・廻田村の小島文平も関わったとされます。文化11年(1814)9月、調査を開始し、文政5年(1822)4月に完成しています。