現在“たっちゃん池”の名で親しまれている湧水の池は、もと東村山宅部部落の田用水で、宅部の貯水池を略して、通称「ヤヶチョ」とよばれていました。


  現在“たっちゃん池”の名で親しまれている湧水の池は、もと東村山宅部部落の田用水で、宅部の貯水池を略して、通称「ヤヶチョ」とよばれていました。
 広さ一千坪(三千三百平方メートル)ばかり、水深七メートルほどのこの池には、夏になると親の心配をよそに、近くの子供達が毎日のように泳ぎにきていました。

90 たっちゃん池
 大正十四年八月、やけつくような真夏の昼下りのことです。折しも貯水池工事の真最中の頃でした。ちょうど昼休みで、大勢の作業員達が木陰で半日の疲れをいやしている時でした。
「たっちゃんが溺れたよ!」

 という突然のさけび声に、びっくりして皆一斉に池の方へとかけ出しました。近くにいた青年監督官二人がまっ先にかけつけ、救助しようと着のみ着のままで飛びこみました。しかし、二人の青年も子供と共に次々と水の中に沈んでしまいました。

 池のまわりで見守っていた入達は仰天して、さわぎはますます大きくなりました。池に常に浮かべてあった水道局の小舟や、急きょ丸太を組んで作った筏に乗り、各家々から持ってきた井戸のいかりを手に手に、広い池の中をあそこかここかと隅なく探しまわりました。一生懸命に探したあげく、三十分ほど経って漸く池の東北の水底から、ぐったりとした三人を引上げました。

 青年の着ていた木綿の作業着や足に巻いたゲートル、はだし足袋は、ぐっしょりと水をふくんで重たくなっていました。急いで人工呼吸をしましたが時すでに遅く、再び息をふき返しませんでした。急を知らされて埼玉県荒幡からかけつけた青年の父親は、兵隊から帰ったばかりの一人息子の死に、気も狂わんばかりに嘆き悲しみました。

 狭山に住んでいたたっちゃんは、当時六、七才、兄姉の末っ子で、母親はすでに亡くなり父親の手一つで育てられていた可哀そうな子でした。幼くして死んだたっちゃんをあわれんで、この悲惨な出来事の後、ヤヶチョは"たっちゃん池"と呼ばれるようになり長くその名をとどめています。

 しかし、この事故の裏には、前途ある青年二人の尊い命も共に失われてしまったことを知る人は少ないようです。
(p196~197)

【たっちゃん池】

かなしみ残る「たっちゃん池」

都立狭山公園(東村山市域)内にある「たっちゃん池」。
今では、深い緑に囲まれた静かな池。近くの保育園の子どもたちが池のほとりで遊び、人びとの散策を楽しむ姿を見る。
この池、村山下貯水池が完成するまでは、宅部地区(現在の東村山市多摩湖町)の水田の用水として大切に守られてきた。下貯水池の建設工事のため、水田の用水としていままでのように使えなくなるため、それを防ぐために、建設工事の一環として「宅部貯水池」として整備されたものである。

この池は、昔、地元の人からは「門前池」とも呼ばれていたという。このいわれは、池の西側の山、中腹に三光院の寺があり、その山門から用水が見えたからだといわれている。また、この池のあたりは、葦の繁茂する湿地帯であり、そのほとりは、大和村から宅部および埼玉県に通ずる道路があり、近郷の人びとの交易の要路だった。

村山下貯水池が、ほぼ完成間近な一九二五年(大正十四)八月、大和村狭山に住む"たっちゃん"(当時十歳)という泳ぎ上手な子どもが、工事中のこの池で泳いでいておぼれてしまったという。工事をしていた人の中にも海軍兵経験の人も何人かいて、次つぎと三人が助けに入ったがそのうち二人が池にのまれてしまったと語りつがれている。それ以来、この池を「たっちゃん池」と呼ぶようになった。

昭和に入ってからも、大和村の人がこの池でなくなった事故があり、当時の人びとの中には「カッパの住む池」ともいわれていたという。

春、夏、秋とこの池のほとりでくつろぐ人は多い。それぞれの四季を映して、静かで美しい池。しかし、この池は、その昔の出来事を物語るかのように、何かものがなしさを漂わせている。
(東大和市史資料編2p140)

48、宅部池(たっちゃん池) 
   狭山公園の中に、「たつちゃん池」という溜池があります。 この池のいわれについては、別項(№81)で述べます。 
   この池は、今の東村山の多摩湖町にあった宅部(やけべ)の田んぼに水を引くために作られた人工の池です。 池が出来る前も池のようなものはあったようですが、村山貯水池(多摩湖)の工事で地形かわったために確認は出来ません。
   この池は地図には宅部池と書かれています。 貯水池が出来るまでは、このあたりの田んぼは宅部川(現在の名前は北川、地図によっては後川)に堰を作り田んぼに水を引いていました。(今でもせき橋という名前の橋がのこっています)   村山貯水池(多摩湖)で川がせき止められたためにその代替への施設として作られた様です。
   春になると十二段(別項№218で述べます)と呼ばれるところを経由して多摩湖から池に水が送られてきます。 池の管理は水田の耕作者がおこなっていたようでした。 
   満水になって流れる水路の他に、もっと池底に近いところに排水のための水路があり、田植えの頃や付近で行方不明者が出た時などには、そこまで水が抜かれました。 日本は水田が多く水の分配に関しては水利権という権利があり何よりも優先してまもられています。 (2010.06.03記)