石井道郎

石井道郎

戸倉物語 奥書

石井道郎(いしいみちお)
 1921深川木場に生まれる。父材木商,母五日市出。
  旧制府立三中,府立高校を経て九大経卒。
 主な著者
  五日市町史(近世・近現代)
  秋川市史(近世)
  たのしい郷土史一五日市いろはカルタ
  萩原タケーナイチンゲール記章に輝く郷土の人
  詩集 杉の学校
  詩集 五日市
 (高校教師を経て五日 市町立郷土館勤務)
 現住所〒190-01
 東京都西多摩郡五日市町五日市381
 電話0425-96-0637

磧学・石井道郎氏の話
 草莽の譜 岡村繁雄 p6~9

 現在展示されている文物は、色川教授らが発掘したもののコピーのほか深沢家の菩提寺である真光院に伝わっていたものが含まれており、資料の解説には五日市郷土研究会会長の石井道郎氏ら七人の学識経験者があたった。石井氏は明治末期の町長、岸忠左衛門の孫で、昭和二十三年以来三十二年間、都立五日市高校で政治経済、倫理社会の教鞭をとり、そのかたわら郷土史の研究と深く取り組んできた。

 現在は郷土館の嘱託の任にあるが、このような人物を得た意義は大きく、今後とも一層の充実が進むことだろう。
 その石井氏に郷土史から見た五日市憲法ということで話を聞いた。これまでに世間に紹介された憲法草案誕生についての見方には二つの大きな誤解があると開口一番強調した氏は「五日市憲法草案に関する話をすると、だれでも、五日市というのは東京の西の果て、深い山峡の地であるのに、どうして時代を先取りしたような私擬憲法ができたのかという疑問を持つようだ。しかし、私にいわせればそれが第一の誤解で、この町の歴史を知らないことからくるものだと思う」としながら、五日市町の近代史の観点からこう説明する。

 「明治初年、正規の町制が施かれた自治体が東京に七つあった。甲州街道に沿って調布、府中、八王子、日野、青梅街道沿いの青梅と田無、それに五日市街道の起点五日市がそれだ。江戸時代に五日市は一大消費地であった江戸のまちへ木炭を供給する炭の市として栄えていた。その名の示すように五の日に定期市が立ち、山の部落の炭や薪、木材と里の農産物や生活物資の交換売買をする市場、今でいえば流通センターだったわけで、人口は幕末の頃で千二百人を超え、富裕な旦那衆が発生し、地域経済の拠点であった」とする。

 つまり、五日市は単なる一山村ではなく、多摩の文化の発生地の一つだったというのである。当地の江戸期からの名産である「黒八丈」は、その時代の織物のレベルと比べてもかなり高度な技術改良が見られることなどからも察せられるという。

 二っめの誤解は、名もなき民衆の業績としては素晴しいとするものだが、これについては「憲法作成者あるいは作成に関与したグループを当時の社会の勤労大衆であるとか底辺層の人々と見るのは間違いだろう」と指摘する。「確かに明治維新を仕上げ、政府の主流派となった大久保利通、伊藤博文、山県有朋などといった元勲と対比すれば無名の民であったかも知れないが、五日市に限っていえば、むしろ名のある家系、地域の指導層であり、五日市地方を政治、経済さらには文化のうえからも背負っている階層の人々であった。たとえば深沢権八の家は代々の世襲名主で、村の名をそのまま苗字にしているくらいだから旧家であることは疑いない。しかも深沢家の名声は村を越えており、まさに武家といってもよいほどの勢力を持っていたと考えるほうが自然である」という。まして、千葉卓三郎にいたってはれっきとした武士の出身である。

 以上のように五日市町を僻地の後進地と捉えるのは歴史的認識の不足であり、憲法草案の作成者を名もなき民衆とするのは社会構造への認識不足だということである。
 これは色川教授らの研究グループが深沢家文書だけで五日市憲法の母胎を見ようとしたことから生じた誤りという。石井氏はそう語りながらも、自称”色川門下生”で、特に歴史の視点は色川歴史学によって蒙を啓かせられ、いわゆる郷土史研究家がおちいりやすい瑣末主義(さまつ トリヴィアリズム)から救ってもらっているとする。

 だが「五日市の近世、近代の古文書については、私は誰よりも多くの文献にあたっている。私の持論はこの過程から導き出した解釈であって、いたずらに私見を振り回しているのではない」と持ち前の早口で語った。だから、五日市が「民権の里」とか「憲法の町」として描かれることに違和感を抱いてきたというのだ。