砂川村の学校(立川市史下巻p1036

砂川村の学校(立川市史下巻p1036

第二節砂川地区の小学校設置

 柴崎地区を中心とした立川の学校は、中立川の立川学校一校だけであったが、隣接の砂川村においては小学校の数はこれを上回っていた。砂川村は五日市街道に沿って東西に非常に細長く延びた村であるため、学校も一校だけでは通学に不便である。前述した宮崎若狭の寺子屋はいつ頃まで存続したものかその終りを明らかにしないが、明治五年(一八七二年)頃の砂川村には、村のほぼ中央の五番に高野源兵衛の私塾が、東寄りの八番に村立の郷学「共同学舎」が設けられていた。この二つの学校は、明治五年の学制による小学校設置に際し、そのまま公立中砂川学校・公立東砂川学校となった。

◎安島注 前述した宮崎若狭の寺子屋
 阿豆佐美天神の宮司の宮崎若狭によって、江戸末期に寺子屋が開かれていたことが知られている。砂川村は江戸末期には養蚕と織物による商品生産が行われていたから、教育に対する要求も大きかったのであろう。(立川市史下巻1026)

 公立小学校設置に際しては、砂川村西部の児童のために同じ明治五年、三番の流泉寺境内にさらに公立西砂川学校が開かれた。これは後に西砂川小学校から砂川第二小学校となり、現在の立川第九小学校に至るのである。砂川村がいくら細長い地域だとはいっても、学制発布当時から東・西・中と村中に三小学校が設置されたというのはかなりめずらしい例であろう。当時においては学校設置は地元民のかなりの負担となったにもかかわらず、三小学校が設立されたということは砂川村民の教育熱が高かったことを示すものといえる。これはやはり砂川村が養蚕・生糸・茶・藍・野菜などの商品生産が盛んな地域であったから、農民も取引のために読・書・算盤等の能力を必要としたということが大きな原因であったと
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思われる。

 寺の一部などを使用して開設された三小学校は、やがてそれぞれ学校独自の校舎を持つようになる。
 明治十年後半に執筆されたと考えられる『皇国地誌』によれば、西砂川学校は明治九年十月、中砂川学校は翌十年十月に校舎を新築している。この頃の学校の状況を知る手がかりとして西砂川学校開申書を次にあげる。これは明治十八年に作られた学校要覧であるが、少し時代が降るとはいえ、初期の西砂川学校の概況を推察することができる。学校は公立であるが、実際は村立というより部落立に近く、いくつかの部落が合同して学校組合を結成し、学校を設立・維持していたのである。

村立西学校開申書
一設置之目的
 当村内学齢子女ニ普通小学科ノ中高等以下ヲ授ント欲スル為ニ設ク
一名称
 砂川西学校
一位置
 北多摩郡砂川村字大山道西第三百八番地流泉寺境内七反七畝五分別紙図面之通
一建物
 新築建坪 四十坪外に便所二坪 別紙図面之通