砂川村の教会
千葉卓三郎の生涯 相沢源七p86
フランス・カトリック宣教師ウイグルスに教えを乞う。このウイグルスへの接触が卓三郎を五日市に結びつけることとなる。ウイグルスは多摩地方と縁が深い宣教師で、明治八、九年ごろから八王子付近を盛んに布教して歩いていたところから、卓三郎もまた彼に従って多摩地方に足を踏み入れて行ったと考えられる。当時、北多摩郡砂川村には仙台藩出身の竹内寿定(貞)が砂川カトリック教会の会員として活躍しており、卓三郎はこの同藩出身者に会っているのではないかとも考えられている。
竹内は仙台藩勇義隊士で砂川村塾の塾頭をしていた。色川教授は、卓三郎が五日市に来たのは明治八、九年頃のことであり、砂川教会を経て同郷の先輩永沼織之丞(勧能小学校長)のもとに出入りし始め、助教を勤めながら、この間しばしば上京しては、ウイグルスやマクレーの許で学んでいたのではないかと推定している((2)=色川『民主憲法の創造』p200)。
五日市町史
このころ、五日市には同じ仙台藩出身の永沼織之丞が勧能学校の初代校長、伊東道友が同訓導として、千葉吾一が戸倉学校にという具合に、同じ仙台人の仲間が教師になってて入りこんでいた。そんな関係から大久野に招聘され、勧能学校へスカウぎれたのかもしれない。永沼とのかかわりも、明治九年から一〇年にかけて干葉が接したカソリック教の人脈から糸がつながってくる。やはり同郷の先輩になる竹内寿貞がすでにそこで洗礼をうけ、北多摩郡砂川村(現立川市)に聖堂をたてるなど、多摩地区に積極的な布教活動を展開していた。同教のテストヴィート神父に導かれた青年たちが、南多摩郡元八王子(現八王子市)に聖マリア教会の仮聖堂をたてたのもこのころである。
その竹内は戊辰戦争では勇義隊隊長をつとめ、敗北後は数年の下獄を経て上京し、永沼らと一緒に砂川村の豪農、砂川源五衛門の食客となり、村塾で青年子弟に撃剣・柔道などを教えていた経験があり、永沼とは知友であった。こうしたつながりから千葉自身も、明治八、九年頃から五日市に往来するようになり、永沼校長をはじめ深沢名生、権八親子や内山安兵衛らとも親交を深めるようになったのである。ここで深沢親子と邂逅したことはかれ自身の人生にとって大きなステップとなった。
(五日市町史p720)
やはり同郷の先輩になる竹内寿貞がすでにそこで洗礼をうけ、北多摩郡砂川村(現立川市)に聖堂をたてるなど、多摩地区に積極的な布教活動を展開していた。同教のテストヴィート神父に導かれた青年たちが、南多摩郡元八王子(現八王子市)に聖マリア教会の仮聖堂をたてたのもこのころである。(五日市町史p721)