稗の備蓄の共同処理(寛政元・1798年)記事武蔵村山市史上p1109

稗の備蓄の共同処理(寛政元・1798年)記事武蔵村山市史上p1109

 天明の飢饉以後、狭山丘陵周辺の村々も余力を失い、いざという時のための穀物(稗)の備蓄が問題になりました。幕府は窮民救済と共に、備蓄のための蔵=「郷蔵」(ごうぐら・備蓄庫)の設置を進めます。

 寛政元年(1798)1月、狭山丘陵南麓の村々に設置が命ぜられ、代官所から、
・材料として幕府の林山からの切り出しを許可する
・数か村の村が組合を作り建造して
・管理も共同で行う
ようにと指示してきました。

 ここで、一緒になって事業を進めたいと申し出たのが
 宅部村、芋窪村、中藤村、横田村、三ツ木村、岸村、箱根ヶ崎村、小川村でした。



その理由は、
・各村の収穫量が少ないので共同して建造・管理する
・稗を集めることが困難な場合は買って納める
としています。(武蔵村山市荒田家文書)(武蔵村山市史通史編上p1110)

 残念ですが、この申し出が実現したのか、実際に、組合が作られたのかははっきりしません。
 しかし、新しい組み合わせとして狭山丘陵南麓西部の村と小川村が共同事業をしようとしてきたことに注目です。(2014.08.05.記)