空堀川の橋
空堀川は今から5~7万年前、関東山地を流れる古多摩川が青梅付近で決壊し、狭山丘陵を囲んで東から西の広い範囲で流れ出し、関東山地から運ばれた砂礫は3~4万年もかかって扇状地を形成し、箱根火山や富士山の噴火によって堆積した火山灰が武蔵野台地を造りました。空堀川は当時の古多摩川が残した名残川なのです。これは武蔵野台地の地形図を見れば明らかです。川の流れは大きな河蹟(注)となって荒川低地につながっています。現在の川を見ると誰もが人工河川のように思われがちですが、改修前の空堀川はれっきとした自然がつくりだした河川なのです。
流域に人が住み始めたのは、先土器時代の1万2、3千年位前から縄文時代前・中期の5、6千年位前と言われています。また、最初は暖かく環境の良い丘陵側南斜面(南稜)、水利の良い川の辺りから住み始め、そのうち往き来するために橋が架けられました。
川と人との関わりの古くは、狭山丘陵の台地の南面、空堀川右岸の北向き斜面とに分かれていたようです。東大和市史によると、「先土器時代には、奈良橋川と空堀川の合流点の上・下流に街道内遺跡・丸山遺跡・丸山二の橋遺跡・清水上砂遺跡等があり、”礫群”と呼ばれる遺構が証明している」とあります。縄文中期になるとさらに多くの遺跡があり、武蔵村山市の念仏塚遺跡・御伊勢地遺跡・東大和市の街道内遺跡・清水上砂台遺跡、清瀬市の野塩前原遺跡・野塩外山遺跡というように、川と人とは深くつながっていました。ところが不思議なことに、弥生時代になると吉祥山(きちじょうやま)に弥生時代の遺跡があるだで、古墳時代を経て奈良時代、そして昭和時代まで、空堀川流域からは人影がなくなってしまいました。吉祥山遺跡は、縄文時代前期の土器をはじめ、中期・後期、そして弥生時代の住居跡が幾重にも重なっている遺跡です。ここは空堀川流域の遺跡として有名ですが、山と下を流れる川との関係は分かりません。
狭山丘陵の南稜に長い間張り付いて生活してきた人たちに大きな変革がおとずれました。慶長7年(1603)、今から約400年前、徳川家康は江戸に幕府を開きました。開幕とともに多くの人が移り住んできました。武蔵野台地は江戸の台所となり食料増産の使命を帯び、ススキの野原は開墾され、狭山丘陵から南の野原(荒地)に伸びる道が造られました。初めに道が造られ、その道は野原を越え川を渡って続いていました。川を越えるために橋が必要になりました。その後、草刈りや開墾、農作業に行くために便宜上橋の名前が付けられました。方向を示す橋、たとえば、上砂橋・中砂橋・野行橋は農作業の場所を示し、庚申橋は庚申塚のある場所に架かる橋、というように徐々に名前が付けられました。また、主要な道には人の往来と共に後から名前が付けられていきました。ですから歴史的には橋の名前は方向を示すものであったり、目標でもあったのです。(古林寛治 空堀川 橋ものがたり けやき出版p34)
清水上砂台遺跡 市史資料編3p78 Evernoteにあり。下宅部遺跡の北川との関連性は
下の図に礫が写っているのに注意 この礫は芋窪礫層の礫と同種なのか?
狭山丘陵 狭山丘陵は、多摩2面相当の古い段丘地形です。基盤は狭山層とよばれる海成層で、海退期になると整合で芋窪礫層に移行します(離水後は火山灰起源のレス=多摩ロームが厚く堆積しています)。海成層にしては標高が高いような気もしますが、これはテクトニックな動きで関東平野の周辺部が上昇しているためです(しかも荒川断層と立川断層に挟まれて傾いています)。ちなみに北川谷のような名残川は、表流水や地下水を集めて水流が維持されますが、古多摩川の離水後数十万年の間、レス(風成層)は氾濫原にはあまり堆積できず、谷の両側に積もって丘となりました。狭山丘陵の周囲は、多摩面以降の下位段丘=下末吉面・武蔵野面・立川面に囲まれていますが、北川谷にもそれらの時期に相当する段丘面が形成されているようです。 |
狭山丘陵の南稜に長い間張り付いて生活してきた人たちに大きな変革がおとずれました。慶長7年(1603)、今から約400年前、徳川家康は江戸に幕府を開きました。開幕とともに多くの人が移り住んできました。武蔵野台地は江戸の台所となり食料増産の使命を帯び、ススキの野原は開墾され、狭山丘陵から南の野原(荒地)に伸びる道が造られました。初めに道が造られ、その道は野原を越え川を渡って続いていました。川を越えるために橋が必要になりました。その後、草刈りや開墾、農作業に行くために便宜上橋の名前が付けられました。方向を示す橋、たとえば、上砂橋・中砂橋・野行橋は農作業の場所を示し、庚申橋は庚申塚のある場所に架かる橋、というように徐々に名前が付けられました。また、主要な道には人の往来と共に後から名前が付けられていきました。ですから歴史的には橋の名前は方向を示すものであったり、目標でもあったのです。
開港以来、唯一の輸出品であった「絹」は、明治になって富国強兵政策のもとにますます養蚕が盛んになり、それまでの畑地はどんどん桑畑に変わり、それが第二次大戦前まで続きました。
地域の植生として代表的なものは「けやき」であり、「えのき」も多く、これを象徴するように市の木、市の花に指定されています。東大和市・東村山市・清瀬市・小平市は「けやき」を、武蔵村山市は「えのき」を市の木に、「ツツジ」を市の花に指定しています。また清瀬市は「サザンカ」を、武蔵村山市は「茶の花」をそれぞれ市の花としています。
第二次世界大戦が終った昭和30年(1955)代から空堀川流域には徐々にたくさんの人々が住みはじめ、橋も次々と新しく架けられました。そのため、薬師橋・新薬師橋、丸山一の橋・丸山二の橋、上砂一の橋・上砂二の橋、天王橋・第二天王橋・第三天王橋などは架設された順番か、あるいは一つの橋では足りなくなって新たに架設されたことを表しています。
また、上砂・中砂・下砂などのように橋の名前が重複しているのは、昔、村々は仲が悪く、似たような地形を持った場所の中で互いに競い合った結果、はからずも同様の名が付いてしまったのでしょう。上流・下流の行政間に連携がなかったことの証拠でもあるようです。
このように橋の名前は、今から見ると昔の字・小字を偲ぶ僅かな覗き穴的な名残とも言えるかもしれません。川はその自然の形態の中で、その地域にとって行政がどのような位置付けをしてきたか、その力の入れ具合によっても市民の意識が大きく変わってきます。武蔵村山市においての残堀川、東大和市の奈良橋川は市民の意識から遠く封じ込められた川であり、東村山市の北川、清瀬市の柳瀬川は市民活動によって蘇りつつある川です。残念ながら、空堀川は一本の流れでありながら、上・中・下流域に意識の差が大きく、難しい側面を持った川になっています。(古林寛治 空堀川 橋ものがたり けやき出版p34)