空堀川の生い立ち
今から2万年以上の昔、おそらく5~6万年前の地質時代、第四紀洪積世に関東山地の山波が連なっていた頃、青梅付近の低い部分から古多摩川が流れ出し、東から狭山丘陵を挟む形で流れが西に遷移してきました。土砂(砂礫)は、氷期には上流に、間氷期には遠くまで運び出され扇状地が造られてきました。これれが現在の武蔵野台地です。
空堀川は、この古多摩川が流れを変えて遷移したときに残された川の跡・名残川(なごりがわ)だと考えられています。古多摩川が運んだ砂礫の上に、箱根火山や富士山の度重なる噴火活動によって高く上がった噴煙は、上空の偏西風に乗って関東一円に火山灰を降らせました。この火山灰が関東ローム層として空堀川でよく見られる赤土なのです。赤土の下には厚い河床礫層が分布しています。流れがさほど急でなかったため大きな石は何処にも見つけることが出来ません。みな角が丸く、大きくてもこぶし大程度のものが殆どです。この砂礫は現在の多摩川と同じものであることから、武蔵野台地は古多摩川によって造り出された扇状地であるといわれています。
空堀川は、東京の北部、埼玉県との境にある狭山丘陵に連なる武蔵村山市の野山北公園の谷戸に源流を発し、学校田を潤し、釣り池を経て、東大和市、東村山市、そして清瀬市で柳瀬川に合流する全長約14㎞の一級河川です。流域面積は26.8平方㎞、流域人口20万8千人(平成13年4月現在)、四市の人口35万4千人の59%の人が依存している河川です。
(小林寛治 『よもがえれ生きものたち 空堀川の水生生物』けやき出版 p1)
水の少ない川
空堀川は昔から水の少ない川であったことは歴史的に証明されています。これは前述の武蔵野台地形成の歴史からも、水が浸透しやすい地層、つまり関東ローム層・武蔵野礫層が表面を覆っているからです。このローム層の薄い所を流れる水は、赤土を洗い流し、古多摩川が残した礫層面を流れています。当然川の水はこの部分を流れるときには地下に浸透(水漏れ)していきます。水の多くは地下に浸透し伏流水となって下流に湧き出ていたようです。
改修された空堀川では数箇所の地点でこのような水漏れが起きているのが分かっています。コンクリートで固められた落差工と落差工の間で流量を測ると結果は歴然と表れています、最近では流量を測るまでもなく水は下流まで届かない事態になってきています。
その昔、奈良橋川の合流点から東村山市内では、水の少ない枯れ川であったと言われています。このため土地の人は”カラボリ”あるいは”カラッポリ”と呼んでいたようです。また、「東大和市史・資料編」によれば、奈良橋川と空堀川の合流点付近では、古老が”ケカチ川”と呼んでいた、という記述があります。「ケカチ」とは本来「飢渇」と書き、悪いこと、災いがあるということを表わしているそうで、空堀川の出水や冬場の水枯れ等で流れのない状況を言っていると思われます。そのためか土地の人たちからはあまり親しみを持たれていた川ではなかったようです。
(小林寛治 『よもがえれ生きものたち 空堀川の水生生物』けやき出版 p2)