維新後の農兵

維新後の農兵


慶応3年(1867)12月の王政復古の大号令により、幕府は消滅します。しかし、京都の
新政府がすぐに全国を統治できるわけもなく、江戸周辺では旧幕府の支配体制はそのまま
存続しました。当然、天領の支配も代官所が継続して行っていました。
ところが戊辰戦争が始まり、東征軍が東海道を進んでくると、代官の江川英武(英敏の弟)は
いち早く新政府に恭順してしまいます。旧幕府と支配地域との繋がりは絶たれ、江川支配地
の農兵は消滅することになったのです。旧天領の村々はほとんどが新政府に恭順の姿勢を
取りましたが、中には日野宿農兵隊のように、新選組(甲陽鎮撫隊)と共に新政府に抵抗した
所もありました。
戊辰戦争が終わり明治の世の中となると、農兵制度は完全に廃止となります。しかし、政府
には予算もなく、警察組織は江戸時代と同様脆弱なままでした。そこで政府は旧幕府と同様に、
各地域では自ら治安維持を行うよう村々に委託せざるをえなかったのです。
明治3年(1870)4月に農兵が使ったゲベール銃は政府に引き取られましたが、ミニエー銃
(国産スプリングフィールド銃)はそのまま貸与されました。蔵敷村で6挺、奈良橋村、高木村、
後ヶ谷村でそれぞれ3挺ずつが明治8年(1875)まで貸し出されていたことがわかっています。

幕末の多摩・狭山丘陵一帯は治安が悪化し、民衆は命と財産を自ら武装して守るよりほか
ありませんでした。多摩一帯に天然理心流などの剣術が流行したのも、そのためです。農兵
政策はその自衛手段と意識をさらに一歩進めたことになりました。開国派の江川英龍が代官
として村々を指導したことも、多摩の農兵が西洋式の訓練に順応できた大きな要因となった
でしょう。
しかし、彼らの武力行使は、あくまでも自らの命や財産を守る自衛に限ったものでした。

西南戦争が終わると、多摩でも自由民権運動が活発化します。庶民が自らの権利を主張し
始めたとき、その中心にかつての農兵組合が置かれていた場所が多いのは、無関係では
ないでしょう。