肥料の購入

肥料の購入

新田開発の畑は「野方軽土」で、収穫量を上げるために、効力の強い「糠(ぬか)」「灰」「干鰯(ほしか)」「〆粕(しめかす)」などを投入しました。これらは「金肥」と云われるように代金を支払って購入する必要がありました。1700年代初めに使用が開始され、1800年代には全面的に普及したとされます。その過程で争いが生じます。

肥料問屋・仲買人が値上げをし、不純物を混入して居る、値下げと取り締まりを求める入間地方の村方の訴えです。東大和市の内野家に文書が残されているので、多摩地方も係わったものと思われます。文書の言葉が当時の実情を理解する参考になりますので、要点を東大和市史から引用します。

①武蔵野新田諸村は大変土地が悪く、大麦・小麦・粟・稗しか生育しない。肥料は粉糠・灰を用いているが、地元には無く、遠方の江戸問屋・仲買から購入している。しかも近年値段が上昇し一同難儀している。・・・粉糠を適宜な相場で売買できれば大変ありがたいことである。蒔付の時節になっても適宜な相場で売買し、百姓が相続できるように触流していただきたい。

②「小糠下り俵」の値段は現在金一両につき四・六俵である。小糠は一反歩の畑へ一俵余り入れるが、収穫は小麦七斗位、大麦は一石三~四斗である。しかし現在の相場は金一両につき小麦が一石七~八斗、大麦が三石七~八斗で全く割が合わない。小糠は、結局どれほど高値でも買わなくてはならない品なので、その辺を御理解の上よろしく触流していただきたい。
③省略
④粟糠・黍(きび)糠は小糠に似ているが、決して肥料にはならず、かえって作物の害になるものである。しかしこれらを米糠に混ぜて売るものもいる。これを購入し使用したものは、作物は不出来、土地は荒れるやらで難儀している。このようなことをせず、正しい品を適宜な相場で売買するように、理解ある処置をいただきたい。

この訴えは聞き届けられています。村にも肥料商が発生しました。大和町史は

「この地方の商品の取引の主要なものは、肥料商であり、穀屋であった。取引された肥料は主として糠であったが、この外に灰もあった、いずれも他地方から買入れたものであるが、江戸時代も中ごろ以後になると、肥料を買い入れて村民に売る肥料商か、村に発生した。村の肥料商は、主として引又(埼玉県志木)、所沢などから糠や灰を仕入れ、それを、春さき、肥料の必要な時期になると農民に貸し与えた。代金は、秋に作物が出来ると、穀物で回収した。そこで、村の肥料商は、引又や所沢から肥料を買入れて農民に売る肥料商であると共に、農民から穀物を買取って、所沢や引又に売る穀屋でもあった。

村の肥料商は、もともと裕福な農民であったが、彼らは、糠を、安い時期に買っておいて、肥料の必要な、値段の高くなった時期になると農民に貸しはじめ、代金返済の時まで、月に二割から二割半位の利息をとって代金を回収した。こうした方法の糠代金は、ふつうの糠値段よりも高く売り、返済する穀物は、普通の穀物値段よりも安く買い取った。こうした点で肥料商を兼ねる穀屋は、農民のうらみを買う原因を持っていた。」(p239)
としています。後の打ち壊しの対象になっています。村人達は金肥購入資金をどうにかして得なければならない状況がありました。そして、江戸からの帰途これらを購入して村へ運ぶことも農間稼ぎの大きな目的の一つでした。
江戸へのルート

文久3年(1863)後ヶ谷村明細帳は農間稼ぎの実態を次のように記しています。
「馬持ち百姓は柴山に出て薪や炭をつくり、あるいは青梅・飯能・五日市・八王子などで炭薪を買い入れ、馬附けに致し、夜四つ頃から江戸に出かけ、朝方、お屋敷様へ納めて、その日の内に立ち戻って、夜五つ前後に帰ってくる」

清水村とほぼ同一文です。隣村が互いに連絡しあって造っているものと思われます。このルートを復元してみます。

・柴山に出て薪や炭をつくり、或いは
・その日か前日 青梅・飯能・五日市・八王子などで炭薪を買い入れ
・馬に背負わせて、夜四つ(午後11時)に出発し、
江戸街道(現青梅街道)を九道の辻~田無~四谷~新宿を経て、夜通し歩いて
・朝方 外桜田にある武家の家(曽我又兵衛宅)に着き、薪炭を納める
・帰途の馬には、肥料や油、その他を背負わせ
・同じ道を引き返し、夜五つ(午後8時)に帰宅する

道中には様々なことが起こりました。東大和市に伝わるよもやま話の一つに「火をふところに入れた法印さん」があります。