自由党
ブリタニカ百科事典
日本の政党。日本最初の全国的自由主義政党。自由民権運動のなかで重要な役割を果した。 1881年 10月 18日に板垣退助,中島信行,後藤象二郎,末広重恭,馬場辰猪らが結成。総理板垣,中央機関紙『自由新聞』を発行。
薩長両藩出身者が支配する藩閥政府と対決,自由民権の伸長,地租軽減,条約改正などの要求を打出し,各地で急速に勢力を伸ばした。しかし 82年6月の突然の集会条例改正による地方部の解体や,福島事件をはじめとする政府の激しい弾圧政策,不況による資金の欠乏,板垣の外遊をめぐる党内抗争などにより,84年 10月 29日ついに解党に追込まれた。
加波山事件
1884年9月に栃木,茨城両県下の急進的な自由党員が,茨城県加波山を拠点に挙兵した反政府運動。福島県令三島通庸の弾圧を契機としているが,数年来のデフレーションと租税の増加に基づく農民の没落と分解が大きく運動に作用した。河野広躰,鯉沼九八郎,富松正安らは,政府高官を倒し,政府転覆をはかることを計画,機会をうかがっていたが,官憲の追及が迫ったため,一行 16名は加波山にたてこもり,次いで宇都宮へ進む途中逮捕され,7名の死刑者をだした。
秩父事件1884年11月
1884年埼玉県秩父郡で起った自由党員と農民の蜂起事件。いわゆる自由民権運動における激化諸事件の一つ。当時,松方デフレ政策の影響を受けて養蚕,製糸業を主業とする多摩,秩父地方の農家の大半は窮境に陥り,高利貸からの借金に頼らざるをえなくなった。このため,井上伝蔵ら秩父の指導者は警察や高利貸に対して請願を続けていたが,84年2月,大井憲太郎の秩父遊説を機に自由党に入党。そして,同8月秩父困民党を結成し,同郡大宮郷の顔役であった田代栄助を総裁とした。彼らは運動の目標を,借金の 10年据置き,40年賦返済,校費雑収税,村費の減免などにおき,陳情,請願を続けた。しかし,10月井上ら指導者たちは合法運動に限界を感じ,武力による目的実現へと準備を開始するにいたった。 11月1日同郡下吉田村椋神社に数千名の武装農民が結集,翌2日大宮郷を占拠した。暴動発生を知った埼玉県当局は憲兵隊派遣を要請,3日憲兵隊が出動したが,農民軍に敗れ退却。4~5日東京鎮台兵2個大隊が出動するに及んで,同5日農民軍は制圧された。事件後,田代ら7名の死刑を含め,有罪 3386名が確定した。