芋窪街道
2011年7月23日
14:32
①芋窪街道
東大和市上北台から多摩センターまで多摩を南北に縦断する多摩都市モノレールが、平成十年十一月上北台~立川間が開業している。
西武拝島線と玉川上水駅のわきで交差して、芋窪街道の上を銀色の車体が走る光景は、二十一世紀を目指して発展する多摩を象徴するかのようである。
芋窪街道は、立川市栄町で立川通りと分岐し砂川七番へ、玉川上水駅を通り東大和市内桜街道と交差し、上北台新駅の手前から新青梅街道を斜めに横切る形で、芋窪の青梅街道添いの加納屋前に達する道をいう。
立川市栄町の付近は、享保年間(一七一六~三五)芋窪の人、三鴨氏等が砂川分水の支流を用水として新田を開発した。芋窪新田という。埼玉県所沢辺から甲州街道日野宿へ出る道であった。
重要な道のようだが、昭和の初期までは、草ぼうぼうの農道で、街道添いの畑に行くのが怖いようだったと聞く。また現在のNTTの付近は少々窪(しょうしょうくぼ)といわれる土地で、水が溜るので大きなヒューム管を入れてあったという。
桜街道のバス停から丸山台バス停付近の間を街道に添った弓なりの細い道は旧道で、道幅もこの程度であったらしい。
昭和二年ごろ、農道のようなこの道を府道にするために当時の青年団員、清野喜蔵氏、星野兼松等が計画を立てた。昭和五年に在郷軍人であった尾又車三、星野権太郎、木村誠重氏等が測量を行い、同年五月に完成した。専門の測量士を頼まず、右記の三氏が中心になり、青竹の両端に糸を十文字につけて測量したとのことである。この時、土橋(宮田橋)を渡り、現在の芋窪郵便局のあたりから二股に分かれる二つの道を、府道にするか意見が対立したそうであるが、結局今の道に決定したという話である。
測量等の費用は、豊鹿島神社の畑が権太谷っに三反程あったのを百円位で売却して当てた。当時は砂利道で、立川の学校へ自転車で通うのが大変であった。
新青梅街道から空堀川に掛る中砂橋を北に進むと四ツ街道に出る。昔は「横街道」といった。この辻に馬頭観音が祀ってある。以前は小高い塚の上にあった。四ツ街道を過ぎると間もなく右手の木立の中に要石、その先に蓮華寺がある。さらに進むと街道は丁字型に青梅街道に出て終る。変遷を重ねた街道だが、道の拡幅や歩道の整備のでき上るのも間近であろう。ただ新青梅街道以南の発展と対照的に、北側の道は今までと変らない街道の姿を見せている。
(東大和市史資料編9道と地名と人のくらしp15)