芋窪街道

芋窪街道


芋窪街道 

 東大和市上北台から多摩センターまで多摩を南北に縦断する多摩都市モノレールが、平成十年十一月上北台~立川間が開業している。
 西武拝島線と玉川上水駅のわきで交差して、芋窪街道の上を銀色の車体が走る光景は、二十一世紀を目指して発展する多摩を象徴するかのようである。
 芋窪街道は、立川市栄町で立川通りと分岐し砂川七番へ、玉川上水駅を通り東大和市内桜街道と交差し、上北台新駅の手前から新青梅街道を斜めに横切る形で、芋窪の青梅街道添いの加納屋前に達する道をいう。
 立川市栄町の付近は、享保年間(一七一六~三五)芋窪の人、三鴨氏等が砂川分水の支流を用水として新田を開発した。芋窪新田という。埼玉県所沢辺から甲州街道日野宿へ出 る道であった。
 重要な道のようだが、昭和の初期までは、草ぼうぼうの農道で、街道添いの畑に行くのが怖いようだったと聞く。また現在の NTTの付近は少々窪(しょうしょうくぼ)といわれる土地で、水が溜るので大きなヒューム管を入れてあったという。
 桜街道のバス停から丸山台バス停付近の間を街道に添った弓なりの細い道は旧道で、道幅もこの程度であったらしい。
 昭和二年ごろ、農道のようなこの道を府道にするために当時の青年団員、清野喜蔵氏、星野兼松等が計画を立てた。昭和五年に在郷軍人であった尾又車三、星野権太郎、木村誠重氏等が測量を行い、同年五月に完成した。専門の測量士を頼まず、右記の三氏が中心になり、青竹の両端に糸を十文字につけて測量したとのことである。この時、土橋(宮田橋)を渡り、現在の芋窪郵便局のあたりから二股に分かれる二つの道を、府道にするか意見が対立したそうであるが、結局今の道に決定したという話である。

 測量等の費用は、豊鹿島神社の畑が権太谷っに三反程あったのを百円位で売却して当てた。当時は砂利道で、立川の学校へ自転車で通うのが大変であった。

  新青梅街道から空堀川に掛る中砂橋を北に進むと四ツ街道に出る。昔は「横街道」といった。この辻に馬頭観音が祀ってある。以前は小高い塚の上にあった。四ツ街道を過ぎると間もなく右手の木立の中に要石、その先に蓮華寺がある。さらに進むと街道は丁字型に青梅街道に出て終る。変遷を重ねた街道だが、道の拡幅や歩道の整備のでき上るのも間近であろう。ただ新青梅街道以南の発展と対照的に、北側の道は今までと変らない街道の姿を見せている。

芋窪街道(二)     (いもくぼかいどう)
     文  素っ頓狂  

『芋窪街道は神様も通って
いらしゃったんだ!』
『そうなんですよ。』

昭和第一学園高校(立川
市)の隣、長く続く参道の(さんどう)
奥に『愛宕神社』が鎮座し(あたごじんじゃ)(ちんざ)
ます。この近くを新田開発(しんでんかいはつ)
した人々が故郷の芋久保村(いもくぼむら)
からお迎えした神社です。
新田村の生活は血のにじ
む厳しいものでした。黒土
が少ない中での畑作です。
天候に大きく支配され、肥
料がたいへんでした。原の
茅や狭山丘陵の木々の落ち(かや)
葉を有機肥料としました。
しかし、生産量を上げるた
め、干鰯(いわしのほした(ほしか)
もの)や糠を買い入れて、(ぬか)
土を肥やさなくてはなりま(こ)
せんでした。
代金は、生産物で精算さ
れました。自給自足が原則
でありながら、貨幣経済に
巻き込まれ、肥料代が借金
になることもありました。
乳幼児の死亡率がとても
高く、乳飲み子の無事が真
剣に祈られました。天候や
肥料の値段、子供の健康が
村の存続につながりました。
高橋源一郎氏は「元文四
年(一七三九)調査の草分(くさわけ)
百姓は芋久保新田だけで十
九戸あり、内、潰家が四戸(つぶれや)
あつた。」(武蔵野歴史地
理)としています。
新田開発に命をかける一
方で挫折が隣り合わせにあ(ざせつ)
り、人々は心をこめて、親
村=芋久保村の「愛宕様」(あたごさま)
を勧請してお祀りしたので(かんじょう)(まつ)
した。本社は、今も、豊鹿
島神社に境内社として祀ら(けいだいしゃ)
れています。芋窪街道はこ
の血と汗と祈りがしみこん
だ道です。


芋窪街道(一)     (いもくぼかいどう)
     文  素っ頓狂  

『まだ、そんなのが東大和
にあるんだ・・・?』
『冗談じゃないよ。よくも
無事に残った、と関心して
んだ・・・。』
『だって、あんまりにも、
古くさいジャン・・・。』

最新式のモノレールが走
る道、チグハグに思うのも
無理はありません。前回の
鹿島様の要石の前を通って、
新青梅街道を横切るとモノ
レールが走り、途中で別れ
て直進し、立川市の栄町に
達する道です。先人達の焼
け付くような情熱と労苦の
固まりが道となっています。
到達点の立川市栄町周辺
は、曠野を芋久保村の人々(こうや)
が新田開発をして、新しく(しんでんかいはつ)
つくり出したところです。

享保十五年(一七三○)(きょうほう)
芋久保村(当時はこのよう(いもくぼむら)
に書いた)の名主・平左衛
門が玉川上水の水を分けて
もらって、新田を開発した
いとの願いを出しました。
水も不自由、木陰もない
中を芋久保村から、毎日、
毎日、開墾に通いました。
当時の武蔵野は草原に「柴」
(背が低い細い木)が生え
ていたと考えられています。
その根を切っての開墾は、
赤土の掘り起こしです。た
ちまち赤っ風が舞い上がり
ます。隣の高木新田の例で(たかぎしんでん)
は、風の強い日は、弁当を
あけることもできず、柴に
しがみついて過ごしたと語
られます。肥料も遠い道を
運びます。みんなで助け合
って、ようやく「芋窪新田」
がまとまりました。その新
田と親村・芋久保村が結び(おやむら)
ついた命の道です。
(次に続きます)

東京都道43号立川東大和線

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Japanese Route Sign Number 4.svgJapanese Route Sign Number 3.svg
東京都道43号標識

東京都道43号立川東大和線(とうきょうとどう43ごう たちかわひがしやまとせん)は、東京都立川市羽衣町2丁目から東大和市芋窪に至る主要地方道である。大部分が多摩南北道路4号線(立川東大和線)に属する。

芋窪新田の碑 武州多摩郡砂川村の碑