衆楽会(東大和市の自由民権学習結社)
村山貯水池が出来るずっと前のことです。湖底に沈んだ芋窪の石川にあった蓮華寺(れんげじ)で、新しい時代を目
指す画期的な活動が開始されました。「衆楽会」です。
『東大和市史資料編』10p58
明治になって10年とちょっと、まだ憲法はなく国会もありませんでした。新しい国を目指して大きく変わろうとしていました。
そのようなときです、芋窪村と蔵敷村の人々と昇隆学校の児童・生徒が一緒になって、
「自治の道を知ろう」
「旧態依然としている時ではない。切磋琢磨して、天下の通義をさとろう」
と学習と討論の会を発足させました。多摩の自由民権運動の先駆けとされます。
これまでは明治11年(1878)5月、南多摩郡野津田村(町田市)の結社「責善会」(せきぜんかい)で行われた活動が最初と考えられていました。それが、一先早く(4ヶ月)、明治11年(1878)1月17日、東大和市域で開かれていました。その様子を紹介します。
衆楽会会場 蓮華寺位置図 クリックで大
豊鹿島神社社務所の近くにあった明治の学校「昇隆学校」の生徒達が裏山を一峰越えて、石川(現在は湖底)の蓮花寺に向かいます。「衆楽会」の会場です。
ここで、興奮が渦巻く開講式が開かれました。その次第が内野家に残る文書に次のように記されています。
衆楽会開講式
「明治十一年一月十七日(木曜日)
郷党ノ学士自治ノ道ヲ知ラント欲シ、相与ニ之レヲ謁リ衆楽会ヲ設為シ、連月一回若シク(ハ)二回ヲ期シ、各自集会シテ切瑳琢磨シテ、或ハ文ヲ講シ、或ハ書ヲ評シ、或ハ余時ニ詩歌ヲ詠ス、蓋シ此会ノ号アル所以ナリ」
と趣旨が述べられます。式は午後1時に開始されました。
高机が並べられ、松竹梅の三枝が活けられている式場に
芋窪村区長 川鍋正義
会長 江口栄雲(昇隆学校権訓導)
幹事 内野徳隆(=嘉一郎・杢左衛門・蔵敷村戸長)
幹事 石井権左衛門
会員 数名
昇隆学校訓導 内野吉治
昇隆学校児童・生徒 若干名
が入場します。
当時の蓮華寺の様子 クリックで大
午後1時30分、会が始まります。開式の挨拶の後、相次いで祝い文が朗読されます。
挨拶・祝い文
①会長江口栄雲(昇隆学校の権訓導)
「五箇条の御誓文の広く会議を興し、万機公論に決する事を実現する為「旧俗の悪しきを去り、日に新た、日々に新たに、・・・」 と祝文を読みました。
会長江口栄雲の祝文 クリックで大
②幹事 芋窪村・石井権左衛門
「村人同盟して旧習の弊を一新せんと奮発激励し、今後毎月十七日を期日として、良友相互に愚心を切磨して、文明開化の旺盛ならんことを希望する」と継続しての学習を提案しました。
③会友 蔵敷村の内野杢左衛門
「文明開化の時にあたり、田舎に住む「愚夫愚婦」たち、すなわち私たちもいつまでも眠っていてはいけない。旧態依然としている時ではない。「各々切磨して、天下の通義をさとら」なければならない。たとえ無知の民であっても世の中の民としてはずかしくないように努力しなければならないと述べ、そのために衆楽会が「連綿と益々熾ならん」ことを。」(東大和市史p263)と祝辞を述べます。
④会員・児童生徒
昇隆学校の関係者、児童・生徒もメンバーとして参加しました。次のようにそれぞれに祝文を読み上げました。
祝い文を読んだ昇隆学校の児童・生徒 東大和市史資料編10p60
クリックで大
生徒達の祝い文について、『東大和市史』は次のように記します。
「またさらに注目すべきは、学制によって新たに設立された昇隆学校の児童生徒たちもこの発会式に参加し、何人もが大人顔負けの祝文を寄せていることである。(中略)訓導の直接の指導をうけてはいるだろうが、格調の高い文を寄せている事実
である。そこにほ、文明開化をするためには「学ぶ」ことの大切さを埋解し、幼児のころからその習慣を身につけておくべきだと示されている。(p264)
ここで決まったこと
衆楽会の開講式で決まったことは
新しい時代にむけて
・村人が同盟して
・「文明開化の旺盛」「天下の通義をさとり」「自治の道を知り」「旧習の弊を一新せん」ため
・毎月17日に学習会を持つ
ことでした。参加者のわくわく感が伝わります。
幹事 石井権左衛門の挨拶と提案 クリックで大
衆楽会のその後
本当に残念ですが、衆楽会の活動がその後どのように進められ、発展していったのかは不明です。何が実践されたのか詳細が知りたいです。記録を懸命に探しています。ご存じの方、どうか一報くださるようにお願い致します。
参考までに、衆楽会が開かれた頃の東大和市に関する自由民権に関わる人々の動向は次の通りです。
◎会長の江口栄雲は昇隆学校の先生(権訓導)であり、蓮華寺24世住職でした。明治20年(1887)まで寺の興隆に努め高く評価されています。
昇隆学校での権訓導としての活動は不明です。
◎幹事役の内野杢左衛門は、当時23才、蔵敷村の戸長でした。
翌・明治12年(1879)から神奈川県議会議員に当選して活躍の場を拡げ、自治改進党の推進者として活動します。
◎五日市で活躍した深沢権八は当時18才、村用掛として村政に関わります。
◎五日市憲法草案策定の千葉卓三郎は、当時27才、明治11年4月から12年1月ごろにかけて草花村の開明学舎に教員として在職していたことが確認されています。(秋川市史p1140)
その後、東大和市域では
・明治12年(1879)7月5日、蔵敷村で村会議員選挙、引き続いて高木村など各村に村会が設けられます。
・明治13年(1880)から、高木村、蔵敷村に新聞の共同購入、回し読みをする新聞購読社が設立されます。
・明治13年末から14年にかけて民権結社「自治改進党」への参加が進みます。
参加者のいずれもが村の有力者でした。
・明治14年(1881)に入ると、東大和市域内の村々で相次いで自由民権学術演説会が開かれます。
5月6日・芋窪学術演説会 9月25日・狭山自由懇親会 11月24日・奈良橋自由懇親会
奈良橋自由懇親会には、参加者が狭山丘陵全域へと広がっています。
・明治14年(1881)春頃から秋まで、千葉卓三郎が奈良橋村の鎌田家に滞在しました。
9月25日に行われた狭山自由懇親会に深く関わったことが知られます。
狭山円乗院で行われた「狭山自由懇親会」の案内状
クリックで大
明治14年(1881)10月11日、明治政府は10年後(1890年)の国会開設を約しました。同時に、参議・大隈重信を解任し、いわゆる、「明治一四年の政変」が起こりました。これを機に自由民権運動は姿を変えます。
衆楽会の先駆的な活動、東大和市の先人の貴重な資産として明日の自治に最大限に生かしたいです。
『東大和市史』『東大和市史資料編』からの引用については、許可を得て掲載しています。
(2019.04.16.記 文責・安島喜一)
東大和の歴史 現代
自由民権学術演説会
午後第壱時、当区長川嶋正義、会長江口栄雲、幹事内野徳隆、石井権左ヱ門、交会員数名各客室に入る
尋て昇隆学校訓導内野吉治、生徒若干名を卒ひて同く客室に来る、而して会場には高机軟揚摺掲揚を列置シ、机、
毛氈(せん)を覆へ、其上には松竹梅の三枝を捕みたる銅瓶を備へ、和気降々然たり
同三十分 戸長並びに会長、幹事及び会員、訓導並びに生徒等各席に就き、育列粛然祝文を朗読す
○常盤の縁は胎光に映し、紅白の香恵風に和し、満堂芬芳(ふんほう)たり、
修竹の青粋青満たる庭前の池に影を描し
○十七順次莚ヲ退キ
郷党ノ学士自治ノ道ヲ知ラント欲シ、相与ニ之レヲ謁リ衆楽会ヲ設為シ、連月一回若シク(ハ)二回ヲ期シ、各自集会シテ切瑳琢磨シテ、或ハ文ヲ講シ、或ハ書ヲ評シ、或ハ余時ニ詩歌ヲ詠ス、蓋シ此会ノ号アル所以ナリ
午後第壱時、当区長川嶋正義、会
長江口栄雲、幹事内野徳隆、石井権
左ヱ門、交会員数名各客室二入ル、
尋テ昇隆学校訓導内野吉治、生徒若
干名ヲ卒ヒテ同ク客室二来ル、而シ
テ会場ニハ高机軟揚摺掲揚ヲ列置シ、机、
毛氈(せん)ヲ覆へ、其上ニハ松竹梅ノ三枝
ヲ捕ミタル銅瓶ヲ備へ、和気降々然
タリ
同三十分戸長並びに会長、幹事及ヒ
会員、訓導並びに生徒等各席二就キ、
育列粛然祝文ヲ朗読ス
○常盤ノ縁ハ胎光二映シ、紅白ノ香
恵風二和シ、満堂芬芳(ふんほう)タリ、修竹ノ
青粋青満タル庭前ノ池二影ヲ描シ
〇十七順次莚ヲ退キ
またさらに注目すべきは、学制によって新たに設立された昇隆
学校の児童生徒たちもこの発会式に参加し、何人もが大人顔負け
の祝文を寄せていることである。下級一級生の石井大吉から上級
八等生の内野うら・伊藤鉄五郎・星野安五郎までが、訓導の直接
の指導をうけてはいるだろうが、格調の高い文を寄せている事実
である。そこにほ、文明開化をするためには「学ぶ」ことの大切
さを埋解し、幼児のころからその習慣を身につけておくべきだと
示されている。
ここには、古い因習にしばられている姿は見えない。老若男女
が学びあいながら、村あげて開化していこうとする旺盛な積極性
があふれている。実態がどれだけ伴ったものになったかは十分明
らかではないが、東大和地域の一角に、明治維新から十年後の一
八七〇年代という早い時期に、こうした人びとの新しい姿をとら
えることができるのである。
それはまた、南・北・西多摩の三多摩全体のエリアのなかで自
由民権運動史をとらえてみた場合、実はもっとも早い動きとして
注目される。神奈川県下でも活発な活動を展開した三多摩の自由
民権運動では、五十余りの結社が誕生しているが、その最初のス
タートを切ったといえるのがこの衆楽会であった。これまでの研
せきぜん
究で三多摩の民権運動の火ぶたをきったとされていた「責善会」
が、南多摩郡野津田村(現町田市)に石阪昌孝や村野常右衛門ら
によって結成されるのは衆楽会から四か月もあとの明十一年五
月のことであった。その意味でも、吉野泰三がいう「旧弊随風」
に甘んじている北多摩人というとらえかたは、実態を正確に反映
していない。蔵敷村の内野らの動きは、まさに民権学習の先頭を
走っていたといえるのである。
なお、衆楽会の詳細については、東大和市史資料編10『近代を生
きた人びと』を参照。
(蓮華寺イメージ図 星野晴一氏原画をもとに作成)
内野家の文書庫に開校式の次第が残されています。
明治十一年一月十七日(木曜日)
として開始されました。
集まったのは
芋窪村区長 川鍋正義
会長 江口栄雲(昇隆学校権訓導)
幹事 内野徳隆(=嘉一郎・杢左衛門・蔵敷村戸長)
幹事 石井権左衛門
会員 数名
昇隆学校訓導 内野吉治
昇隆学校生徒 若干名
でした。 (東大和市史資料編10p56)
挨拶・祝い文
①会長江口栄雲(昇隆学校の訓導)の挨拶
「五箇条の御誓文の広く会議を興し、万機公論に決する事を実現する為「旧俗の悪しきを去り、日 に新た、日々に新たに、・・・」 と祝文を読みました。
②幹事 芋窪村・石井権左衛門
「今後毎月十七日を期日として、良友相互に愚心を切磨して、文明開化の旺盛ならんことを希望す る」と継続しての学習を提案しました。
③会友 蔵敷村の内野杢左衛門
「文明開化の時にあたり、田舎に住む「愚夫愚婦」たち、すなわち私たちもいつまでも眠っていて はいけない。旧態依然としている時ではない。「各々切磨して、天下の通義をさとら」なければな らない。たとえ無知の民であっても世の中の民としてはずかしくないように努力しなければならな いと述べ、そのために衆楽会が「連綿と益々熾ならん」ことを。」
と祝辞を述べます。(東大和市史p263)
④会員
多くが昇隆学校の関係者で生徒もメンバーとして参加して、次のようにそれぞれに祝文を読み上げました。
東大和市史資料編10p60
昇隆学校は芋窪村と蔵敷村で設立した小学校で豊鹿島神社の敷地内にありました。
衆楽会のその後
昇隆学校で行われた衆楽会の学習会がその後どのように発展していったのかは不明です。東大和市史は
「ここには、古い因習にしばられている姿は見えない。老若男女が学びあいながら、村あげて開化していこうとする旺盛な積極性があふれている。実態がどれだけ伴ったものになったかは十分明らかではないが、東大和地域の一角に、明治維新から十年後の一八七〇年代という早い時期に、こうした人びとの新しい姿をとらえることができるのである。
それはまた、南・北・西多摩の三多摩全体のエリアのなかで自由民権運動史をとらえてみた場合、実はもっとも早い動きとして注目される。神奈川県下でも活発な活動を展開した三多摩の自由民権運動では、五十余りの結社が誕生しているが、その最初のスタートを切ったといえるのがこの衆楽会であった。」(東大和市史p265)
としています。
この年の自治の動き
・7月22日、郡区町村編成法、府県会規則、地方税規則の三新法を公布
・11月、神奈川県では戸長選挙規則を布達、戸長の選出を公選制とした(武蔵村山市史下p123)
・11月18日、砂川源五右衛門が北多摩郡長に任命される(武蔵村山市史下p122)
◎幹事役の内野杢左衛門は23才、翌・明治12年(1879)から神奈川県議会議員に当選して活躍の場を拡げます。
◎深沢権八は18才、村用掛として村政に関わります。
◎千葉卓三郎は27才、明治11年4月から12年1月ごろにかけて草花村の開明学舎に教員として在職していたことが確認されています。(秋川市史p1140)